2012年10月22日月曜日

時期不明 「流れの中で(1)」



流れの中で(1)

山之端一博

漂よう少年時

驛の夜明━━━雀の群が、木の梢、屋根
の端へと群れ騒ぐ。少年はベンチに眠り
不思議な夢をかきいだく。 小麦色の少
女よ。汽車に乗って旅立う。土もあり、
植物もあり、木もあり、石もある。家を
作り、服を作り、五線紙の上へ新らしい
風景を定着しよう。風も水も日光も、新
たな結合の中で輝やくことだろう。東の
空からヴェールがはがれ、芝井は今、始
まろうとしてゐる。いともやさしく、い
ともものやわらかに。━━いざとなった
ら叩き合ひ泉のふちに寝轉がる迄さ。
朝だ。朝だ。夢は日光にとけて赤く輝く。

朝━━━光は肉体をつき刺す。汚物は流
れ去る。脳葉は鋭く柔らかく━━一個の
海綿となる。人間の形、動き、量が、次
々と収穫され、次々と刈りとられ━━━
細胞の廻轉は、快適なリズムとなる。山、
川、丘、谷、森━━花の咲きこぼれた湖
畔、或いは泉の蔭。露の閃き。━━銀波
の輝き。少女の髪が朝風におどり、微笑
は新鮮な果実となる。青空へ立ち昇る、
オレンジ色の火山灰。その向うへ虹。
溢れこぼれる光の饗宴。

港━━━少女の死。幻影の逃亡。船は港
に止って動かない。少年は突堤の突端で
じっとたたずむ。海を漂ようけし粒。黒
い点。絶え間ない動揺。海の唄。少年は
海底へ沈む。……大空をかけ昇る白馬の
群………窓辺に開かれた空白のノート。
しのびよる曙。移り行く影。洗われた甲
板の冷たさ。少年の背中に伝わるエンジ
ンの始動。船はゆたゆたと沖へ漂よう。
音のないドラ。はためくマストの信号旗。
野蛮な、未知の、黄色い港。

漂よう船━━━黄色い濁流を水死人の群
が流れる。捨てられた木箱の中の閃めく
宝石。椰子と阿檀葉と共に珍奇な昆虫も
流れる。黒人女パスカの乾いた笑いも流
れる。━━━今、黒い貨物船は北にある。
灰色の海と、灰色の空と、灰色の霧の中
にある。帆はハタハタと白く輝やき、マ
ストは銀色にこおりつき、氷山が左右に
漂よう。岩石の肌は鋭角にとぎすまされ、
光と影が、ノミの刃となって砕け散る。
船底に石炭は赤々と燃え、スコップを握
る火夫は船長である。船窓からのぞけば
氷原を走る銀狐の群。群狼の遠吠。━━
貨物船は漂ひ進む━━太古の洞穴、輝や
くオーロラ、閃めく風光、未知の色彩 
━━開かれざる歴史━━ 氷原に埋れた
原初の跡。

北の国━━ゲルマン人は、冬の木立の間
を、山犬をつれて鹿を追い、南へ降りる。
枯れた立木。ポキポキと小枝の折れる音
が谷間をわたる。雪の原野に鹿の足跡。
谷を滑り降り鹿を待つ。━━━しッ。樺色
の枯葉のしげみにかさかさする音だ。一
瞬、白いしじま。閃めく槍。鹿は声も立
てず、赤い血は湯氣をたてて雪をとかす。
枯葉をあつめて火をたこう。肉(しし)が焼ける
匂いが立ちこめる。紫色の煙が、青い空
へ舞い上る。笑い。さんざめき。少年達
の頬は雪に焼け、青い瞳は南を指す。行
く果はギリシヤ。紺青の地中海、南風の
想いに胸は膨らむ。

美しい火の拡野━━━妖艶な姿をした悪
魔の手をのがれ、輝やく夜の拡野を走っ
たトロイカの群。━━夜には去った。鈴
の音もきこえない。唖の少女の白い頬に
も陽がかげる。少年は机に向い、幻想に
ふける。窓外は田舎道。小鳥も啼かず牛
も啼かず、羊も啼かない。牛車の音すら
きこえない。━━━微風にカーテンがゆ
れる。海から押しよせる潮の香。防風林
のざわめき、枯葉の散乱。唖の少女が笑
ひかける。戸を開き、連れだって砂浜を
ふみしめる。砂丘の向うに愛馬の墓標。
渚に打ち上げられた木椀、難破船のかけ
ら。潮の唄は子守唄。もう■だ。林の中
のふきあげの輝き、まどろむ白兎。より
そう二人の上へ木々は枝を拡げ、空より
落下する花輪の群。

1979.8 「友をうしなう(戦争体験の一齣)」



友をうしなう(戦争体験の一駒)

山入端一博

 子供の頃、名護の町を流れる川へ、よく鰻をとりに連れていってくれたおじさんがいた。釣針に蛙を刺して穴の中へつっこむと鰻がくいつく。それを力一杯ひきずり出して、つかまえる。子供の僕にはそれをつかまえるのが大変であった。何とかつかまえてしまう頃には、体じゅう泥だらけであったが、何という楽しい日々であったか。おじさんはそれから暫くして山口県の方へ仕事で行ってしまったが、僕が中学へ入学した頃、久し振りで帰ってこられた。
 「お前、Pigとは何か知っているか?何!知らない! 豚だよ、豚! カードの表へPigと書き裏へ豚と書きなさい」
 僕に英語の勉強の仕方を教えてくれたのもこのおじさんであった。このおじさんにいわれるとふしぎに、すなおに勉強する気になった。併し、それから間もなく日中戦争がはじまり(1937)中国大陸へ出征されて戦死してしまった。
 若し、生きていてくれたらと、つくづく最近、何ものにもかえがたい貴いものを失ったと感じるようになっている。
 其の後、僕自身も軍隊に入った。外地へはゆかず南九州で軍務に服した。宮崎県の都城の部隊にいた時、丁度沖縄戦が始まろうとしていた時だと思う、部隊も空襲をうけた。爆音が急に大きくなったかと思うと、低く垂れこめた雲の間から、づんぐりしたグラマン戦闘機が突如、姿をあらわし、防空壕へ逃げおくれた僕めがけておそってきた。軒下に身をかくしながら戸外の壕の方へ走った。軒の瓦がパリパリとやられてくずれ落ちてくる。夢中で軒下から壕の方へとび出す瞬間、グラマンの方をちらっと見た。真正面から、機関砲で僕をねらいせまってくる兵士の大きな飛行めがねの顔が怪物のように眼底に焼きついた。しまった!と必死に壕の中へすべりこんだ。
 グラマンにねらわれていると気がついて壕に入りこむまで、ほんの数秒間である。壕へ逃げこむまでの僕の足跡と足跡の間に弾痕があった。ほんの一瞬の時間のずれで僕は死人でいた筈である。今でも、あの時の飛行士の大きなめがねをかけた非人間的な顔が頭にこびりついている。
 大学の同級生にM君がいた。フランス語、ドイツ語を勉強し、ラテン語、イタリア語、ギリシャ語にまで手をひろげていた。大分県の地方新聞に詩の批評文を載せる程、早熟な学生であった。或る日、高村光太郎へ会いに行こうという事になったが、途中でこわくなった。何しろ相手は日本を代表する大詩人である。予定を変更して山之口貘さんの処へ行くことにした。僕が沖縄出身なので行きやすいということだった。貘さんは牛込のアパートにおられた。気楽にお会いになり、近くの喫茶店でコーヒーをのみながら話をうかがった。詩一篇を書くのに何百枚も原稿用紙を使うのだと、作詩の苦労話をされた。帰る時になり貘さんは、体中何かさがしている様子であったが「すまん、金がないなあ」とにやっと笑われた。無一文で漂々と歩きまわるあたり、いかにも貘さんらしいなあと思った。
 戦後、生きながらえて、何をなすべきか悩み、再び大学へ戻った時、M君にあって将来の方針を決めようと思った。彼だけがたよりであった。併し、彼は、僕が入隊して間もなく召集をうけ、南方戦線に行き、ガダルカナルで戦死したときかされた。僕は眼前が真暗になる思いであった。あまり丈夫でなく喘息の持病をもっていた彼が野蛮な殺戮の場で無惨に殺され、彼のもっていたすばらしい知性と豊かな感受性が一瞬にして消し去られたかと思うと、怒りが腹の底からこみあげてきた。



※「M君」は、三浦一衞と思われるが、戦死の地がガダルカナルとある。

2012年9月15日土曜日

1984.8 「馬糞としっぽ」新生美術第3号



馬糞としっぽ

山之端一博

 馬糞はその形といい茶緑がかった色といい、アンコロ餅といった感じの柔らかさ加減といい単純整然として美しい位だ。人間のそれの複雑・怪奇・多種・多様さとはひかくにならない。
 馬が糞をする時は、しっぽを天に向って引き上げ、あのふさふさした長い毛を風になびかせて、軽く四つの足をふんばり、開放され、膨張して、わずかに外部へせり出した肛門部に、五、六個かたまって、ひしめいているアンコロ餅をポロリ、ポロリと落とす。
 その姿は悠然としてすがすがしい。
 併し、いつもこのように悠然とはゆかない。
 戦前、那覇の港に近かった私の家の前の道路は移出する砂糖樽を運搬する馬車でごったがえした。サーターヤーで作られた黒糖は樽に流しこまれ、固められて、馬車に積みこまれた。農村地帯から那覇にくる迄には相当な時間がかかるし、排泄したくなるのも当然である。然し、悠然とおこなう訳にはゆかない。後から馬車がせまってくるからだ。やむを得ず、しっぽを上げると歩きながらポタリ、ポタリとやった。
 一回、五、六十個のアンコロ餅を一日、7,8回以上は排泄するので、その量は相当なものだ。那覇市でも比較的早く舗装された家の前のセメント道路の上にも馬糞がまき散らされた。
 馬糞はパサパサとまではゆかないとしてもあっさりとして粘着力も弱い。馬車の鉄の轍に押しつぶされて、センべーのようにペシャンコになった糞は、亜熱帯のギラギラした太陽に照りつけられるとひとたまりもなかった。栄養分を吸いとられた草の繊維は粉々になり、三重城の沖から吹いてくる潮風にあふられて、屋根の上まで舞い上がった。部屋の中を箒ではいても、すぐ畳や机の上が粉っぽくなった。畳の間や天井裏など箒のとどかないところには粉がたまったにちがいない。蚤の幼虫は動植物性のゴミを好むというから、蚤が多かったのもなる程とうなづける。
 第二次世界大戦の頃までは、日本の陸軍にも軍馬がかなり飼われていた。したがって部隊には馬を世話する為に厩(うまや)当番というものがおかれた。人間にも癖があるように馬にも癖がある。軍隊にも色んな癖の馬がいたが、咬癖の馬は当番を困らせた。馬の歯は人間の前歯のようなものが沢山ならんでいる。私は歯が悪いせいか歯が美しいとは思わない。入歯をみると悲しくなる。馬は草食で肉をくう筈はないのだが、馬は歯をむき出すと気味が悪い、こわい。咬癖の馬は馬相?が悪く目つき鼻つきタテガミの形から身のこなしまで、馬が合わないというか、敬遠したいような雰囲気をもっている。勿論それは人間の勝手で馬のせいではないのだが、このような馬にかぎって相手が敬遠していると思うと益々歯をむき出して咬みついてくるから始末が悪い。しかし、咬癖にもまして、困るのは蹴る癖である。横へ蹴ったり、後へ蹴ったりする、打ちどころが悪いと命とりである。
 厩当番の仕事は色々あったが、その中の一つに肛門を雑巾でふきとるのがあった。馬の肛門を清潔にする為である。馬のまうしろに位置しなければならぬので危険この上もない。うしろから近づくとあぶないので、必ず馬の横っ腹へ近づき、馬にくっついて、馬の様子をうかがいながら、そろそろと尻の方へ近づき、すばやく、しっぽの根っこから十センチ程の処をにぎって上へ持ち上げる。大きな馬だと、丁度、人間の顔のあたりに、しっぽのつけ根があるので、ぐっと力を入れてしっぽを頭の上の方へ押し上げると、馬はじっとしている。どんな暴れ馬でもおとなしく、動かないそうである。
 馬のしっぽの根本は固くて弾力があり、野球の軟球より少し柔らかい感じの筋が通っている。その筋は尾骨から背骨、肩甲骨のつけ根へと美しい波状を描いて続き、更に首の骨から頭の骨へ達する。
 しっぽは馬の骨組を形成する急所の一つにちがいない。しっぽを持ち上げられ、腰が浮いたのでは何の業もしかける訳にはゆかないのであろう。

新生美術 第3号 1984年8月

1990「月刊美術」9月号掲載 南の星座、海、森の風


南の星座、海、森の風

 那覇の港の近く、珊瑚礁の埋立地で、潮の香にさらされ、潮の揺蕩の中で私は育った。潮のリズムへの共感は生まれつきのものである。海へもぐり潮の波動に身をゆだねて眼を開くと、鯛の群が私をとりまいて泳いでいた。私を不思議そうにみつめているギョロギョロした鯛の目付が忘れられない。
 父母の出身地は、山原といわれ、砂浜に面し、山野にかこまれた農村であった。私はよくそこへ遊びにいった。茅ぶきの家は夫々、福木(常緑高木の熱帯アジアの防風林)にとりかこまれて、全体として、集落というよりむしろ、福木の森という感じであった。常食であった芋を掘りにいったり、川へ蝦や鰻をとりに入ったり、森の中で目白を突きに行ったりして、一日中を過ごした。電灯が十分普及していなかった当時は、日暮れと共に星座がが頭上にあらわれた。明るい星空の下を大蝙蝠が黒い羽をひろげてとび廻った。
 大学を卒業して、奈良で仕事についたが、夏の休暇には、三重や和歌山の海へゆき、大台ケ原の原始林の中をさまよった。
 二十数年ぶりに帰ってきた沖縄は、戦争による荒廃から、見事に立ち直り、復興しつつあった。しかし、最近、開発の名のもとで、森や海岸が破壊され、島の人々の生活にもひずみが目立ってきた。そのような状況に対する抵抗や、島の自然や生活を守る活動もたかまりつつある。
 戦争へゆく前、ちょうど三浦とつきあっていた頃、私は森の中へ入るのが夢であった。この夢は戦争と戦後の激動の中で実現出来なかった。老境へ向いつつある今になって、水道も電気もない森へ入り、森の風に耳をかたむけ、星のまたたきにつつまれて生活したいと、準備しつつある。山小屋暮らしである。
 リズムのよい詩や、音楽の旋律やハーモニーが、人々をつつみこんで感動に導くように、画面が無限の拡がりをもち、呼吸しているような絵、見る者をゆっくりとつつみこんでしまうような絵を私は描きたいと思っている。「星座」や「海」や「森の風」はこのような絵に適しているようである。
 三浦の詩編「うみのまど」には、果てしなく、せつない海のリズムがある。「一本道」「徑」などには、森の風に吹かれて、樹や草や川のせせらぎに共感して、旅する漂泊のリズムがある。「流れ星」「征旅」には無限に拡がるスケールの大きいロマンがある。それは星座のまたたきにつながる。
 三浦は南海の潮に身をひたし、ジャングルの奥で森の匂いに感応したにちがいない。
 私は三浦へのレクイエムにふさわしいものとして、「南の星座」「海」「森の風」をモチーフに取り上げた。

1990年 「月刊美術」9月号掲載  銀座「フジヰ画廊」個展関連

1990.8.30 [南の星座] 山之端一博画集 詩人・三浦一衞に捧げる鎮魂の曲



[南の星座] 山之端一博画集 詩人・三浦一衞に捧げる鎮魂の曲 フジヰ画廊





あとがきより

森の風よ やわらかに吹け
南の星座よ 永遠に瞬け

 詩人・三浦一衞は、1945年(昭和20年)5月16日、フィリピン・マニラ東方の山中で戦死した。戦後しばらくして私は、彼の遺稿詩集を出版したいと思いながら果たせずにいた。3年前、藤井一雄さんと池田孝二さんも出版を熱望していることがわかった。妹・玉那覇直や大分の詩人・首藤三郎さん、三浦の義兄・川田彦馬さんとも連絡がとられ、三浦一衞・遺稿詩集「流れ星」が遂に陽の目をみ、フジヰ画廊から発行された。死後実に半世紀ちかくが経っている。三浦を中心にして結ばれている目に見えない不思議な絆を感じない訳にはいかなかった。
 今年の4月5日、友人、知人、縁故のある方々が、三浦の菩提寺、島根県・津和野の光明寺に集い、霊前に三浦一衞・遺稿詩集「流れ星」を捧げ、ねんごろに法要がとりおこなわれた。

 三浦との交友は、1942年6月から、私が第一次学徒動員で沖縄へ帰った、1943年の9月まで、わずか1年余であり、毎日のように彼と生活を共にしたのは、下宿が近くにあった最初の数ヶ月にすぎない。しかし、「…三浦の朗読をききながら、詩や戯曲への理解を深めた。それは私の感性を決定的に鍛練した。私は生きていく上で、極めて大切なものを与えられたと思っている。…」と、遺稿詩集「流れ星」の中の「追想」で書いたように、私にとって三浦はかけがえのない友となった。
 私は絵が好きだったので、大学の美術クラブでデッサンをしたり、戸山ヶ原や江戸川公園でスケッチをしたり、友人の肖像画を描いたりした。麹町平河町にあった三井コレクションで、初めてルオーの原画(女の半身像)をみて、その分厚い、圧倒的なマチエールからせまってくる、激しい生命感に、大きなショックを受けたのもその頃であった。
 首藤三郎さんは、遺稿詩集「流れ星」の、最後の詩編「征旅」の「作品解題」の中で、「…応召の前夜、燈火管制下の部屋で、彼が私に語ったのは、戦争やこれからの運命などについてではなく、ランボオの詩についてであった。」と書かれている。ランボオへの傾倒ぶりと、詩に対する探求心のすざまじさがうかがわれる。彼にとっては「詩」が「生命」そのものであった。私が絵を持続している一つの源は、このような彼の、詩に対するひたむきな姿勢の影響であろうと思われる。
 遺稿詩集を出したいと思ったのは、三浦の詩を評価したからではなかった。彼は古今東西の詩を紹介し、朗読してくれたが、自分の詩については余り語らなかった。当時朗読してくれた彼の詩は、「風景画」「光芒」「一本道」など、極く限られたものであった。しかし、きっとすばらしい詩を残しているにちがいないと、確信していたからである。遺稿詩集「流れ星」ではじめて「まど」以下「征旅」に至る詩篇に接し、やはり予想は的中していた。
 私は彼の詩に触発されて、「詩に形象化」に新たな制作意欲をかきたてられた。しかしこれは中々大変な仕事である。私はまた大きな研究課題を背負わされたようだ。画集の作品の一部は「詩の形象化」の試みである。
 川田彦馬さんは、妹への手紙で次のように書かれている。「…輸送船が魚雷をうけて沈没し、この時、福岡で編成された部隊の殆どが戦死して、弟は僅か十何人の生存者としてフィリピンに上陸したそうです。…戦友が見たとき、海水につかったので…父から貰った腕時計は、これも戦前のものですから錆びてこわれていたそうです。…戦友は喘息の発作はなかったようだと言っていました。からっとした南の国の風土と、前線での緊張感がきっと幸いしたのだと思います。ここまでは弟の前線での生活は順調だったと思うのですが…」
 三浦は、「見者」として南海の苦い塩水を味わい、強烈な紫外線に肌を焼き、砲弾の絶えた静かな時間には、「森の風」に耳をすまして、草の匂いをかぎ、「南の星座」に見入って、ランボオを想い、詩を想って、束の間の生命の時間を、雄々しく生き抜いたにちがいない。鎮魂の意味もふくめて、「南の星座」や「森の風」を捧げる次第である。
 今回、藤井一雄さんが、「山之端一博絵画展」を発案・主催して下さり、池田孝二さんが出品作を中心に画集を編集して下さり、杉浦康平さん、谷村彰彦さんが造本・デザインをして下さった。心から御礼申しあげる。
 絵画展中の9月3日は奇しくも旧盆である。三浦はフジヰ画廊にも訪れるであろう。三浦が愛唱していた「ルバイヤート」の一歌がきこえてくるようだ。

愛しい友よ、いつかまた相会うことがあってくれ、
酌み交わす酒はおれを偲んでくれ。
おれのいた座にもし盃がめぐって来たら、
地に傾けてその酒をおれに注いでくれ
  オマル・ハイヤーム 小川亮作訳・岩波文庫より


1990年8月30日


ルバイヤート  オマル・ハイヤーム→http://www.aozora.gr.jp/cards/000288/files/1760_23850.html


2012年8月31日金曜日

1981  北部にも新しい波 やんばる展



やんばる展 1981年 琉球新報紙上ギャラリー


北部にも新しい波

 子供達がわいわい言いながら絵をみている。赤ちゃんをおぶったお母さんが「静かにしなさい」とたしなめる。
 「うぬいーや、ちむえーわからんさあ、」「うぬちゅーぬいー、くじゅとぅ、ゆかい、かわいそおわんな」お年寄りが絵をみて、気軽に話している。
 展覧会となると、一部の愛好者や関係者が訪れるもので、一般市民には縁がないように思われがちであるが、やっと、市民の生活に溶けこみはじめてきたようだ。
 北部会館、国頭教育事務所の二階ホールの他に、今年は、旧市役所の一階が展示場として新たに加えられたので、書道、写真、絵画の各分野の展示が、去年の二倍から三倍の規模に拡大した。
 私も参加した絵の分野でいうと、第一回では十六点、数名の展示者にすぎなかったのが、今回は八十五点、六十四名に及び、二五〇号に相当する大作をはじめ、100号以上が13点、50号以上となると32点に達した。100メートルをこえる壁面が、見ごたえのある展示となった。
 出品者も、有名無名、名護市をはじめとして、北は国頭村から南は金武町の各市町村に及び、伊江島からの出品も多くなった。作品は抽象・シュル・具象とバラエティに富む。応募作品は、みな展示する、いわゆる、アンデパンダン方式なので、質的な差はまぬがれないが、全体的に、参加してよりよい作品にしてゆこうという気迫に溢れ、自由なすがすがしい気にみちていた。
 来場者も、子供から老人まで、中には外人や中南部の方もみられ、なかなかの華やかさであった。芳名簿に書名した方だけでも三会場で6,500名もあり、今までになく盛会であった。
 新しい文化の波が、高くわき上がるというには、まだまだ程遠いものがあるとはいえ、その波がおこりつつあるといえるのではないだろうか。
 創作品を展示する場があれば、かなりの展覧会が可能である。その点、今回思いきって会場を拡大したことは意義があった。
 古我知や江洲をはじめ、北部各地で陶芸活動は旺盛で着実に力をつけている。芭蕉布を中心とする染織、芭蕉、あだん葉、竹、木を材料とする民芸は、やんばるならではのすばらしいものがある。民芸は地域とのかかわりが深いだけに、これから量的にどう拡げるかが課題であろう。
 「北部混声合唱団」演劇団「山原船」「民話の会」「山原の自然を守る会」をはじめ、多くの活動が存在している。日常的に学習し、練習し、情報を交換する場、そしてその成果を発表し、広く一般市民と交流する「カルチャアセンター」のようなものがあるならば、人々の悲しみやよろこびを秘めた、力強い、新しい文化の波が北部にもたかまり、村づくりや町づくりに大きな活力を与えるものと確信する。 (社団法人・美術同好会サロン・デ・ボザール評議員)

時期不明 沖永良部へ渡る舟(直筆原稿より)


沖永良部へ渡る舟 山入端一博(名護博物館協議委員)

 輿論(ユンヌ)や沖永良部は、やんばる圏といってもよいのだから、もっとやんばるとの間に船の往き来があってもよさそうなものだがと思いながら、まあ久し振で那覇の港へゆくのもよいだろうと、午前5時半名護始発のバスに乗り、7時半集合にぎりぎり間にあった。
 三重城周辺は全く昔の面影を失なっているが港の一角に、かつて山原船が停泊した掘割の一部が残っている。波の上の塩水プールがまだなかった昭和の始め頃は、県下の中学生、高等女学生の競泳大会はこの掘割で、テンマセンから飛びこんで、行われたものである。附近にはトントンブニグワーの造船所もあった。 思ったより豪華なクィーン・コーラル号に乗りこみ、北上する。飛行機から眼下に見る沖縄島は「大きい」という感じはないが、船からみるとなかなか「大きい」。宮城真治著「沖縄地名考」によると、沖縄島周辺の島には沖縄島のことをウクナー、ウキナー、ウチナーなどと呼んでいるところが多いとのことで、ウクは大きい、ナーは村、島、国などの意味があり、つまりオキナワは「大きな島」ということになっている。成程、次から次へと現われる島々に比べると「大きい島」だ。昔の小さな舟からみると更にその感を深くしたにちがいない。
 大正末期に沖永良部へ行かれた伊波普猷さんは、帰りに乗られた平安座船のことを次のように書かれている。「・・・・長さ4間、巾半間の独木船(サバニ)を四叟組み合わせ、舟と舟との間には、山原竹(ヤンバルダーキー)を束ねたものをはさんで、その弾力で相互のきしみあうのを防ぎ、ふなべりには一尺五寸位の波よけをつけ、帆柱が二本立ててありますが、風の都合のわるいときの設備として、艫には大きな櫓が二つほど用意してあります。杉舟でしかも吃水が浅いので、浅瀬でも、大洋でも、滑るように走りますが、どんなしけにあっても沈没する気づかいはさらになく、よし全部浸水することがあっても、筏のようにじつと浮かんでいるとのことです。・・・」(大正15年刊行「琉球古今記」)
 今から200年程前に私の先祖の一人は名護間切、大兼久村からクンジャン、ユンヌを経由して沖永良部へ渡り、ノロと一緒になり、その子孫が知名町で繁栄している。彼の乗った舟はどんなものであったのだろうか、近づいてくる沖永良部島を眺めながらしばし感慨にふけった。(原稿ママ)

1986.8 水彩画集 シリーズ馬1984 あとがき



山之端一博水彩画集  シリーズ馬1984

印刷発行日 1986年10月10日
発行所 アトリエ風樹庵・山入端一博
印刷・製本 ダイコロ株式会社 大阪市北区天満2丁目1番1号

あとがき  馬之介のことなど

 「もうカジマヤー(97才の生年祝)に近い老馬ですが…」と、沖縄の在来家畜の保存に情熱をもやしている、名護博物館長の島袋正敏氏が、ホーチマターの小さな果樹園へ宮古馬を連れて来たのが1983年の夏だった。
 肩甲骨の上の首のつけ根あたりが盛り上がった、この老馬はやせてはいるが骨太で筋肉がしまり、主人の為によく働いた馬であることを示していた。内気そうに、うつむき加減に初対面の私をみつめる不安そうな眼、しかし、どこか図太く、いたずらっぽさもチラリとみせる眼、―「ウーン、これはコージャーウマグワーだなあ」と思わず感じた。
 コージャーウマグワーというと私にはうすよごれた見ばえのしない、しかし、がっしりした背の低い馬という印象がある。競馬場で活躍しているサラブレッドのようなスマートな美しさや、日本の陸軍砲兵隊にも奉仕した、フランス原産のペルシュロンのような威風堂々たるたくましさとはまったく縁がないが、ウチナーウマグワーという何とも言えぬ親近感があった。
 老馬は子供達を背中にのせて、よく遊んでやり、「馬之介」と名づけられて、たちまち子供達の人気の的となった。馬之介は眉のところが白く、左右に乱れたたてがみにも白髪がまじっていたが、それは年のせいではなく生まれつきだったにちがいない。老境に入り、白髪の増えつつある私は、同僚相憐れむの気持ちから、ひそかに彼を、「眉白―マユジラー」と呼んでいた。
 水彩画シリーズ「馬」のモデルは必ずしも馬之介ではないが、彼の出現が、創作意欲をかきたてたのはたしかである。たとえコージャーウマグワーでも馬は馬である。馬のもっている独特の神秘的・ローマン的な雰囲気がどこかにあった。手綱を離れた馬之介が背筋を充分のばし、たてがみを波うたせて、優雅な中距離ランナーのように、軽やかに、大地を蹴って走り廻ったこともあった。「やはり馬だなあ」と思わず眼をみはったものである。
 フランスとスペインの国境にちかい、ラスコーの洞窟に描きこまれた馬の絵によって、人と馬とのつき合いが数万年前の遠い昔にさかのぼることがわかる。農耕・運搬・軍事と馬は最近まで活躍していた。馬が急に姿を消しはじめたのは30年くらい前からにすぎない。
 戦前、名護の私の家の馬屋には、灰色の気の荒い大きな馬が飼われていたし、那覇の港へは砂糖樽をつんだ荷馬車が跡を絶たなかった。戦時中、私は本土の歩兵隊の中の大隊砲部隊に属していた。陸軍で最も小さな大砲であったが、長い行軍の時は馬が曳いたし、直径80ミリもある重い弾丸を運ぶのも馬であった。
 復員しても、すぐ沖縄に帰れず、仲間と共に鹿児島の塩田でしばらく塩作りをやったが、その当時、軍馬を払い下げてもらい非常に助かった。
 黄金色のたてがみと、ふさふさしたしっぽをもった赤茶色の大きな馬が、真夜中に馬小屋から逃げ出して附近の原野をさまよい歩き、運悪く国鉄にはねられて死んでしまった。その馬を仲間と共に砂浜に埋葬した時の暗い、冬の、灰色の悲しい空がいまだに忘れられない。
 自動車やトラックターの普及によって、馬は無用となり捨てられた。除草剤によって馬の生命であった雑草も除かれている。そして土と空気が汚されている。馬や雑草や多くの生命と共生できる世界を夢みるのは妄想であろうか。
 30数年ぶりで馬とつき合うことになり、様々なおもいをこめて馬の水彩画を試みてみた。いまだに画学生をもって任じている私は透明・不透明と違った絵の具を使い、ちがった描き方で色々と表現してみた。1年程で作品も大分たまったので、1984年の8月、名護博物館ギャラリーで「シリーズ・馬・水彩画展」を開催した。
 展覧会を見終わった人から「作品を一つにまとめたら面白いのではないか」という意見がしばしば出た。会場を一巡すると、一枚一枚の作品ではだせない、絵巻物のような変化があり、面白い。記録として、一つにまとめておくべきだという気持ちが働いた。
 カメラマンとしてもすばらしい博物館長が作品一つ一つをきちんとカメラに納めるという、うるさい仕事もしてくださった。
 一枚一枚の絵は未熟だし、まとめるとなると「画集」ということになるし、「画集」では大げさで気が重かった。体調もおもわしくなく、まとめるのが延び延びになっていた。
 たまたま、今年の春、私が奈良県の桜井高等学校の教師をしていた頃の生徒の一人であった、ダイコロ株式会社の嶋岡和雄氏が画集の話を聞き、是非、出版するようにとすすめてくれた。2年たった今でも、なお出版したい気持があるのだから出版にふみきるべきだと決心した。
 丁度、その頃、肺炎を患い、ゼーゼーと息をし、時々大きな咳をするようになっていた馬之介が斃れて立てなくなり、4月30日遂にこの世を去った。死んだ馬之介の黄ばんだ歯並の中にがっちりと噛みこまれた新鮮な緑色の雑草が印象深い。「そう簡単には死ぬなよ。」「最後まで生き抜かねば駄目だぞ。」と語りかけているようであった。
 この画集は2年前のささやかな「馬シリーズ」の記録である。一人でも多くの共感する方があれば、馬之介もよろこぶにちがいない。

 1986年8月 山之端一博 アトリエ風樹庵にて

2012年8月27日月曜日

1987.7 「風が吹くとき」哀れに美しい反核映画



風が吹くとき

哀れに美しい反核映画

 この映画の魅力は、退職した老夫婦のささやかな愛情に満ちた郊外生活を横糸とし、原爆投下という極めて重い事件を縦糸として織りなす異常なドラマ性にある。
 国際的ベストセラーを八作も世に送っている原作者・レイモンド・ブリッグズが描く老夫婦の姿は子供のようにあどけない。第二次世界大戦をくぐりぬけ、仕事をつとめあげ、子供を育ててきた二人は国民として誇りをもっている。ジムは今でも国の指導者を信頼し、国民としての義務を果たすべきと考え、妻をこの上もなく敬愛する人のよい男性で、核戦争や政治などについても妻に講義したりする。妻ヒルダは食事・洗濯・掃除にうちこみ、たよりない夫をあたたかくつつみこむ、愛情豊かな女性である。このほほえましい夫婦の愛情は原爆投下という異常な状況でも変わらず、放射能に侵されて共に死んでゆく。
 森繁久彌と加藤治子は、風刺とユーモアに満ちた、淡々たるイギリス人らしい会話を日本語で見事に表現し、老夫婦の性格を余すところなく浮き彫りにしている。
 原爆投下という限りなく重く暗いテーマを、平凡であるが故に、かえって普遍性をもつ愛情によって、哀しく、そして美しく、やるせなく追求している。その哀しさ、美しさは、原爆投下前のヒルダが蝶になって舞い、投下後はヒルダが消えてカラスになるという、空に舞うタンポポのイメージなどによって増幅される。
 淡々とした動きとはいえ、色彩感の変化に富む、老夫婦に対して、その背景となる部屋の中のたたずまいは、実際にセットされたものや、それにもとづくミニチュアを作って写真を撮り、ほとんどモノクロームで仕上げたもので、アニメでありながらリアルな感じを出し、作品を古典的な重厚なものにしている。
 核ミサイルを積んで疾走する軍のトラック・戦争の予告のニュースの後にあらわれる巨大なミサイル・飛行中の爆撃機・海中を進む原子力潜水艦ーこのような映像が淡々としてすすむ老夫婦の動きの、要所要所にあらわれる。そして、遂に敵がミサイルを発射したニュースーその後の原子爆弾の爆発。このたたみかけてくる不気味な映像や音響は、すぐれたサスペンス映画にもまさるともおとらない迫真的な効果をあげ、観客は息をのむ。数々の国際的賞に輝くジミー・T・ムラカミ監督の才能のすばらしさだろう。
 明るい青空で風に流される白い雲を眺めるジムの最初の場面と、夫婦が黒いジャガイモ袋にはいり、瀕死のイモムシのようにもがいている最後の場面の対比・爆風の暴れ狂う中で破砕される夫婦の結婚写真・体の弱ったヒルダがトイレのネズミを見て悲鳴をあげる場面など何とも哀しい場面も多い。
 主題歌はデビッド・ボウイが担当しており、若ものをひきつけるにちがいない。
 この映画は制作中に生れた子供達にささげられている。核にしがみつく指導者に警告を発し、核によって平和がたもたれるという「迷信」を打破し、「核廃絶」の国際的な草の根運動によって、子供の未来は保障されるという願望からであろう。
 それにしても、これは大人のアニメ映画である。子供に見せるときは先生や父兄が子供と一緒に話し合う機会を必ずもつべきであろう。
 映画を見終わって思わず「うーん」としばらく重い感動にひたった。巨大な核戦争の課題にどう対処すべきかーそれは個々人の生き方の課題でもあろう。


1987年7月?


風が吹くとき→http://ja.wikipedia.org/wiki/風が吹くとき

1992.6.19 沖縄タイムス 唐獅子「フジタのおしえ」



フジタのおしえ

「藤田嗣治先生を囲む学習会」が、波上・護国寺の離れで開かれたのは、1938年の夏。県立二中の美術担当、比嘉景常先生の立案である。私は三年生に進級したばかりであったが、オカッパとめがねの、例のフジタの顔と共に、次のようなお話をうかがったことを覚えている。
 「絵かきは模倣してはいけない。自然と自分の間で、新しい作品を創造しなければならない。ひたすら『自分の絵』を追求すべきだ。私はただ絵を描き続けた。或る日、パリーの古い城壁で、いつものように描いていると、今まで見たことのない、『自分の全く新しい絵』が、突然、画面に定着した。私は『これだー』と思わず大声で叫び、悦びのあまり、野原の上を転げ廻った。」
 フジタは、1913年6月、パリーに着いた翌日ピカソに会い、アンリ・ルソーの絵を見せられ、暮にはモディリアーニ、スーティンとモンパルナスで生活を共にしている。第一次世界大戦中、貧乏とたたかい、皆「自分の絵」を追いつづけた。モディリアーニは1920年、困窮の中で世を去るが、フジタは同じ年、陶器のような肌合いの乳白色の画面に、面相筆で、細密画風に描いた「裸婦」が評判となり、戦後のパリー画壇を代表する画家の一人として、黄金時代を築いていった。
 私が再び、フジタの話を聞いたのは、1942年4月、大学の入学式の時で、オカッパは軍人風のイガグリ頭に変わっていた。
 「従軍画家として『よい戦争画』を描くには、決死の覚悟で、戦地に赴き、戦争の現実をよく観て、よく描く事である…」
 戦後、戦争協力者として批判されたフジタは1949年アメリカ経由で、パリーに向かい、1968年レオナール・フジタとして死んだ。
 フジタの「アッツ玉砕」や「サイパン島の同胞臣節を完うす」の図版をみると、果たして戦意昂揚に役立つものかとの疑問がおこる。

沖縄タイムス 唐獅子 1992年6月19日