2012年8月26日日曜日

1992.1.17 沖縄タイムス 唐獅子「ジュゴンの嘆き」



ジュゴンの嘆き

 小学校へ入学したころだから、もう六十年も前のことである。初冬の、晴れた、すがすがしい朝、名護湾の砂浜に、異様な生き物が引き揚げられていた。体は豚のようにずんぐりした紡錘形。後肢はなく、イルカそっくりの尾鰭。前肢は胸鰭になっている。顔には小さな、かわいい眼、併し、耳も鼻もめだたない。ちょうど、象の鼻を根っこから切りとって、その部分をそっくり、大きな口に仕立てたような、何とも奇妙な格好である。私は今でも、その姿を、名護湾の美しい砂浜と共に、ありありと想い浮かべることが出来る。
 この動物はジュゴン(沖縄ではザン、またはザンヌイュウ)と呼ばれ、熱帯・亜熱帯の珊瑚礁の浅い砂地に生える海草を常食としていた。一生海の中でくらすが、鯨のように大洋へ出るとはなく、岸辺の近くに住む哺乳動物であった。ジュゴンは敵の攻撃から身を守る、鋭い牙も、爪も、もっていない。逃げ足ものろく、遠くへ逃げ出すことも出来ない。従って、波にゆらめき、果てしなく拡がる海草の自然牧場の中でのんびり生きていた。このやさしい、無防備の生きものは、その肉のうまさを知ったヒトの攻撃にさらされると、ひとたまりもなかった。今では、国際保護動物に指定され、絶滅に備えて捕獲が禁止されている。沖縄の沿岸でも、お目にかかることは滅多になくなった。
 私の友人によれば、子供の頃パッパー(名護ではお婆さんのこと)は次のように話したそうである。「ー波の荒い、寒い冬の夜更けには、ひがし海岸から山ごしに、聞こえてくる風や波の音にまじり、ザンの悲しい、悲しい、泣き声が、かすかに、かすかにきこえてきたものさあー」。
 ジュゴンは声を出して泣かないとのことである。まして、ひがし海岸から聞こえてくる筈がない。パッパーはヒトによって食いつくされてゆく、ジュゴンの声にならない嘆きの深さを、感じとっていたのであろうか。

沖縄タイムス 唐獅子 1992年1月17日



2012年8月23日木曜日

1978.6.22 琉球新報 落ち穂「少年たちは小鳥の群」



少年たちは小鳥の群

「僕もパリへ行こうか」と、冗談にいうと、「おい、無茶をいうなよ」といかにも困るといわんばかりにあわてて制止した。「ちょっとパリまで行ってくる」と彼がいって、フランスの貨客船・ラオス号に乗りこんだ時、見送りに行った横浜埠頭でのことである。考えてみるともう十年も前のことである。彼は、インド経由パリへ向かったが、遂にそれから一度も日本へ帰っていない。あの頃は、僕もまだ無茶しそうな様子があったのか、彼のあわて方が目に見えるようだ。
 パリのはずれにあるアパルトマンの、彼のアトリエで石油ストーブをたき、サラダとロシアの蟹罐を肴にしてシャンペンを傾ける。久しぶりで会う彼は、顔一杯ヒゲをはやしたくましくなった感じだ。顔の色艶もよい。絵も相当売れているらしい。
「居心地よさそうだなあ」というと、
「日本を忘れて困るよ」という。
 窓から、裏ぶれた感じの、暮れゆくパリの屋根々々を見る。近くに空地でもあるのか、悪童達が何やらペチャクチャしゃべっているらしい。その声が、まるで枝から枝へと、とびうつりながら、さえずりあっている、小鳥の啼き声のようだ。「少年達の声が小鳥のようだ。小鳥のようだよ」と思わずつぶやく。彼は静かに笑っていた。
 その時、どうした訳か、戦前の那覇の港の風景が急に頭にうかんだ。
 出船・入船で賑わう通堂も、夕暮になると、ひっそりかんとして、風に揺れている大きな港のガジュマルまでがいかにも淋しげであった。港から西新町や、本町へ至るあたりには、大きな倉庫が多く、あやしげなくらい静かであった。
 寝ぐらをさがす雀の大群が、広い空を右往左往しはじめる。夕食前のひととき、街の悪童達は誰ともなく空地の隅に集まって、何かしらペチャクチャしゃべり合って時を過ごした。その声が、丁度小鳥の啼き声のようであったことに思い至った。
 港へサーター車を曳いてゆく馬が、よく糞をたれた。それが強烈な日光で乾燥し、黄色っぽい塵となって街にたちこめた。その匂いも含めた、港一帯の街の匂いがなんともいえず懐かしい。
 勿論、パリには馬糞の匂いはない。しかし、人なつこい、親しげな匂いが流れているようだ。身も心も浸して、じっとしていたいようなやすらぎを感ずる。これは単なる旅の感傷なのだろうか。

琉球新報 落ち穂 1978年6月22日

1978.6.8 琉球新報 落ち穂「ヨーデルの酒場」



ヨーデルの酒場

 夕方、チューリッヒに到着し、湯食をすますと、スイスの民謡・ヨーデルをききに出かけた。ヨーデルというからには、牧場の山小屋で、窓からは夕空が見えて、きっと寒いところで、案内のタクシーは古い街の中心部へ乗り入れた。せまい薄暗い入り口をはいると、スイス・シャレー(山小屋)風の酒場であった。正面の数段低くなったところが舞台で、まわりが次第に高くなり、テーブルや椅子が適当においてある。百人程はすわれるだろうか。舞台を楽しみながら一杯やるという寸法である。五メートルはあろうかというアルプスホルンの低いが力強い演奏が終り、はりのある、かん高いヨーデルの歌声が、直径五十センチ程の大きな牛の首にぶらさげる鐘のジャラン、ジャランという音、牛の鳴き声の擬音までが入りまじって、部屋の中にひびきわたる。スイスの谷や山へ流れる歌声が、部屋の中へ圧縮され、野性的な活気があふれそうだ。
 青年から老人まで男女が一緒になって、眼を輝かせて談笑し、大いに食い、かつ飲んでいる。ヨーデルの内容はスイスの自然や人情をうたったものにちがいない。酒に酔っているというよりも、歌に酔っているという感じだ。このいかにも楽しいふんいきに、こっちもまきこまれてしまう。ドイツ語でさかんに話しかけてくるが、さっぱりわからない。ただ気分はわかるので「ビッテ」とか「ダンケ」とかいって、こちらも、うなずき、笑い、大いに飲む。そのうちお客が歌に合わせて体をゆすり始めたかと思うと、時々、ヨッホ!ヤッホーとさかんに噺す。皿に熱がこもると、隣の人の肩に手をかけて、共に体をゆすり、ヤッホという囃しのところで、立ちあがらんばかりに大きく背伸びする。私も一緒にヨッホーである。人種のちがいも、極東の暑い島国と、寒いアルプスの山国との地理的なへだたりもすべてを忘れて、共に楽しく生きることの尊さみたいなものを認めあう、ある種の熱っぽい友情を共有する。
 翌朝知ったことだが、このスイス・シャレー風の酒場は、リマット河畔の旧市街の真ん中にあり、五百年の歴史をもつとのことであった。たった一晩というあわただしい日程にもかかわらず、チューリッヒの印象は、そのロマンチックな街のたたずまいと共に忘れ難い。

琉球新報 落ち穂 1978年6月8日

1978.5.26 琉球新報 落ち穂「洗濯物の見えない街」



洗濯物の見えない街

 三月二十九日、雄大なユングフラウを背景とする観光の街、インターラーケンで一泊する。化粧室には、バースはなく、直径1メートルほどの、円形の床から十センチ程高い簡単な設備があるだけであった。円の中心にあたる頂上にシャワーがついており、ビニールのカーテンをひくと、体が円筒形に隠される仕組みになっている。スキーや登山のお客が多いと見えて、いかにもスポーツマン好みのホテルであった。
 海抜五百九十二メートルのこの街はまだ寒く、街の屋根屋根にはまだかなりの雪が残っていた。しかし、部屋の中は,裸になっても寒さを感じないくらい暖かい。スチームによる暖房であろう。壁全体から柔らかい暖かさが伝わってくる。自然の温度のような快適さである。湯殿につかって体を温め、よごれをごしごし落とすような欲求は感じない。シャワーがあれば十分という感じだ。
 インタラーケンで四日目であったが、まだ一回しか着替えをしていない。ワイシャツの襟元や袖口が少しも汚れないのである。その原因は勿論、清らかな空気にある。スイスは地下資源としての石炭・石油が皆無であるが、そのかわり、アルプスの氷河の侵食を利用した発電が盛んで、鉄道も工業動力もすべて電力にたよっている。空気がきれいなはずである。
 ゆるやかに起伏する牧草地帯をマイクロバスの窓を眺めながら、案内人のルドルフ訓が笑いながら言った。
「土地買いませんかね。一坪一万円程でありますよ。但し、四百坪以下では駄目ですがね…」
 わざわざ「坪」という日本風の面積単位を使いながら説明した彼の言い分によると、建物のまわりに十分な緑地帯を設けて、街の美観を損なわないようにするためだそうである。また、街では、洗濯物を人目につくところに干してはいけないという規則があるそうで、そう言えば、一度も洗濯物にお目にかからなかった。それだけ市民が街の美しさを保つのに気を配っているということであろう。
スイスの美しさはアルプスの自然の美しさと、それと調和した街の美しさにある。資源に乏しく、貿易収支で大きな赤字を出しながら観光収入によって健全な財政を維持することが出来るのは,その美しい街のせいだろう。

琉球新報 落ち穂 1978年5月26日

2012年8月18日土曜日

1978.5.11 琉球新報 落ち穂「リマット河畔の新緑」


リマット河畔の新緑

 第1次世界大戦が始まった頃、「チューリッヒ」で反戦平和のパンフレットを盛んに出版した、ロマン・ロラン。ロシア革命や第二インターを、ルナチャルスキーと共に指導した、レーニン。ダダイズム運動をおこし、現代の芸術運動に様々な影響を与えた、芸術家の一群。第二次世界大戦の初期、まだ旧中三、四年生の頃、独ソ戦の戦況や戦時のヨーロッパの街の様子などが、「チューリッヒ」発の記事であったことー。
 バーゼルの街を過ぎ、チューリッヒへむかうレンタカーの中で、様々なことが、まだ見たことのないチューリッヒの街をめぐって想い出された。
 灰色の曇天の下に拡がる、淡雪をかぶった広い、なだらかな、今は牛のいない牧草地帯や、樅の木などの繁った黒々とした森林地帯や、教会を中心に、こじんまりとまとまった美しい集落などを後にして、三月二十八日の夕方、チューリッヒの街に入る。
 チューリッヒは人口四十四万をこす、スイス最大の都市であり、現在、国際的な交通、貿易、金融、株式取引の中心地で、ヨーロッパ最大の自由為替市場となっている。全長五千百十三キロという驚異的な鉄道を有するスイスで最初に鉄道を敷設したのもチューリッヒであり、中央駅からはドイツ、イタリア、ポーランドへ直通の急行列車が走っている。
 市街は、チューリッヒ湖から流出する、リマット川にそって発達し、両岸の古い市街は九世紀から十世紀ごろに始まる。特に十二世紀から十四世紀のゴシック建築にはすばらしいものが多い。市の図書館は、十五世紀の建物で、七十万冊の蔵書を有するといわれている。
 チューリッヒの街に入った。最初の印象は、リマット川の新緑の美しさであった。萌えるような緑、すがすがしい緑、桃色がかった柔らかい緑ー生き生きした、かわいらしい新芽の群ー様々な新緑が、幅二十メートルから三十メートルの帯となって、ずっと川辺に続き、レンタカーの窓一杯、清冽な川風に吹かれてそよいでいる。
 この緑が、街全体をのびやかな、ロマンチックなふんいきにつつみこんでいる。商業都市であると共に観光都市として益々さかんになっている秘密の一つは、この緑にありそうだ。この街へ行った人は、きっともう一度訪ねてみたいという気をおこすにちがいない。  

琉球新報 落ち穂 1978年5月11日

1978.4.23 琉球新報 落ち穂「ベルンのホテルで」


ベルンのホテルで

 ホテル・シュヴァイチェルホッフの廊下は二重、三重に絨毯が敷きつめられ、薄暗い壁には時代がかった版画が掛けられ、由緒あり気な油絵の肖像画が、こちらをじっと見つめたりする。古色蒼然たる、様々な家具類は数百年の生活を語りかけ、精巧に細工されたシャンデリアやブラケット、木製のベッドなど、すべてにスイスの伝統が生きている。磨きあげられ、どっしりと黒光りする椅子に腰かけて、夕暮れの静寂の中で、しばらくじっとしていると、まるで自分が、ヨーロッパ近世の歴史の舞台へ迷い込んだ一人物のような気がして、空想が果てしなく広がり、軽い、しかも豊かな気分に満たされる。この気分は七百年前に建立されたといわれる時計台からベルンの街に流れ広がる、ジャラン・ジャランという悠長な鐘の音によって更に深められるようだ。
 このすばらしい気分も、思えば長い間守られてきた平和のたまものであると、しみじみ感ずると共に、戦争によって失われた首里の城門をはじめとした数多くの建造物に思い至るとき、つくづくと平和の尊さを痛感させられた。
 ホテルを出ると、大通りをへだてた真向かいが、スイスの首都ベルンの表玄関で、その近代建築の高い壁には、大きくドイツ語、フランス語、イタリア語で、「ベルン駅」と表示がされている。
 スイスではそれぞれの地域でドイツ語、フランス語、イタリア語、それにこれら三つの言語が混ざり合ったロマンシ語の四つの言語が自由に話されている。七〇%以上の人々がドイツ語をつかっているが、そのドイツ語も各州(カントン)毎にそれぞれ特色があるそうである。一つの国民が、異なった言語を話すということは非常に不便で、面倒なことに違いないが、言語も含めて、各地方の文化を大切にすることの本質的な重要さから見れば、とるに足らぬとこといってよいのであろう。言語の違いを超えた、スイス人の平和を守る連帯は、各地域の人民の生活の豊かさを守る決意に支えられている。
 戦前、ウチナーグチが圧迫を受けたことは、日本の近代文明なるものの底の浅さを露呈したものとみてよいであろう。「おもろ」やウチナーグチや沖縄の芸能を大切にすることが、日本の文化を豊にし、平和に対する強い欲求につながるものであるということを、改めて確信させられた。  

琉球新報 落ち穂 1978年4月23日

1978.4.12 琉球新報 落ち穂「スイスの軍用機」 


スイスの軍用機

 長い風雪に耐えて、ごつごつと節くれだち、今、芽を吹かんとしている、レマン湖畔のプラタナスのすばらしい並木。街路にそって続く広々とした花壇の、目のさめるようなあざやかさ。何百年という歴史をたたみこんで、しっとりと、微妙な色彩に輝く家々の石の壁。郊外にひろがる、なだらかな起伏の緑のじゅうたん。その間に点在する、桜ンボをとる桜のみずみずしく鮮やかな薄桃色の花。農家が思い思いに塗りこめた、開かれた雨戸の多彩な原色。ーそれら、すべての風景が、まだ冷たい清澄な四月初めの空気の中で、夢幻的な世界を現出している。
 ジュネーブからベルンへむかう、レンタカーの中で私は夢心地になっていた。
 突然、運転手がフランス語で、叫ぶように話し出した。案内役のルドルフ君が、うなずきながら日本語で話してくれる。
「右手に見えますねー、広い空地。飛行場です。目立ちませんが、地下はすばらしい格納庫です。このような飛行場が、そうとうありますよ」
 滑走路には十数機の黒っぽい戦闘機がならんでおり、その中の二、三機が動き出していた。離陸の訓練でもしているのだろうか。
 ジュネーブ出身の運転手は、その後もスイスの防衛について、熱っぽく話しかけた。
 スイスの男子は二十歳から六十歳まで、すべて兵役の義務をもち、毎年、短期間ではあるが、訓練をうけている。各家庭には銃が準備してあり、いつでも戦闘に立ちあがれる。第二次世界大戦がおこった時には、ただちに五十万の大軍が動員されたそうである。
 このような、市民皆兵の強烈な防衛意識は、十字軍運動以後の新しいヨーロッパ諸国の利害関係が錯綜する渦の中で、十三世紀の後半以来、スイスの人々が、必死になって独立を確保することによって、平和を守ってきた、はげしい、長い、たたかいの歴史の裏付けがあることを知らされた。窓外の移りゆく、美しい風景を眺めながら、きびしい、平和の課題をかかえる、沖縄の、島々のたたずまいや、青い海のひろがりに、しばし思いをめぐらした。

琉球新報 落ち穂 1978年4月12日掲載

2012年8月6日月曜日

1976  奈良から来て  辺土名高校生徒会誌


奈良から来て

 住みなれた奈良県を去って本校へ勤務することになり、今から二十三年前の一九五三年一月に本校を描いたスケッチがあるのを知って、不思議な縁だと感じいりました。第一次学徒動員で軍隊へ行ってから約十年ぶりで故郷へ旅行したとき、本校の先生に辺戸岬まで案内してもらい、帰る途中、教室で話をする破目になってしまいました。
 内容まではっきり覚えていませんが、沖縄は戦争によってひどい目にあい、今尚、占領下のきびしい状態にあるが、本土や東南アジアの人民とともに平和な未来をきづくことにより希望が生れる筈だといったようなことを話したように思います。
 生徒諸君が、眼を輝かせて聞いてくれた情景が昨日のように思い出されます。彼等も、もう四十才前後になっている筈です。話の途中から雨が降り出し、屋根がパラパラして話が出来ず困ってしまいました。
 米軍のコンセット(かまぼこ兵舎)の教室で床もなく、椅子も机も砂の上にありました。あの当時のスケッチをみると茅葺の掘立式の建物なので、屋根がパラパラするのはおかしいと、新里教頭先生に聞いてみるとそれは教室ではなく、地域の人々がつくってくれた寄宿舎とのことでした。よく考えてみると、今の視聴覚ビルのあたりを、饒波橋のあたりからスケッチしたもののようです。
 粗末な建物とはいえ、あの苦しい日々の生活を考えると、本校に対する地域の方々の並々ならぬ協力と教育への情熱が感じられ、尊いものであるとしみじみ思います。
 辺高の者はこのような歴史を大切にしたいものです。

  海遠く 三輪山おもう 急転勤
  車窓より 潮騒あびる 急転勤
  白雲や 海白くして 島ただよう

  大和は国のまほろば たたなづく 青垣山
  もこれる大和し 美し……(古事記)

 奈良県には海はありませんが、美しい山々があります。
 二十年以上も三輪山を眺めながら通勤しました。併し、今、山原の海を眼前にして、あらためて海の美しさに魅せられています。真夏の静かな日、塩屋から沖をみると空に白雲が拡がり、その白い影が海に映じ、水平線がさだかでなく古宇利島が浮いてみえます。
これも又絶景の一つです。啄木は「雲は天才である」と言っていますが海も亦、千変万化、いくらみてもあきることがありません。少年の頃、悲しい時、海へゆき、潮の音に慰められたことを想い出します。
 本校の生徒が一般的に純情、素朴で親しみ深いのは、山原の美しい海と山のせいでしょうか。併し、ヤンバラーのもつ剛健な積極性が弱くなっているように思います。塩風をつっきって、毎日五八号線を、ひた走りに走り、練習に練習を重ね、遂に全県下を制覇し、京都でおこなわれる全国大会へ駒をすすめた駅伝の勝利が示すように、忍耐に忍耐を重ね、努力に努力を重ねて、栄光めざし頑張るならば辺高生の未来には洋々たるものがあると信じます。純情にして剛健ーーー この本校の長所をはっきり自覚し、あらゆる面、特に学習面に積極的にとりくむこと、これがもっとも大切なことのように思います。
 まさに「勇をもって事に当れ」です。断乎として頑張りましょう。

1976年 辺土名高校生徒会誌

やんばるだより<海人>


やんばるだより<海人> 山之端一博 時期不明

やんばるだより
<海人>うみんちゅ
山入端一博

 那覇空港より北の方へ、国道五十八号線をバスに乗り、那覇の市街地をすぎ、四〇分程ゆくと、嘉手納空軍基地を右に見ることができる。基地の金網がとぎれて、しばらくすると多幸山(たこうやま)という丘陵地帯にはいり、そこを出たとたんに左手に東支那海が拡がり、海岸まで丘陵地帯がせまる北部地域になる。おきなわでは北部の方を山原(やんばる)と呼んでいる。山や原野の多いところという意味であろう。
 やんばるは戦災も比較的少なく、自然も比較的保存され、言語・風俗などにも中南部とは異なった特色を残している。
 去年の四月、沖縄へ移ると、しばらくして病気で倒れ、北部の街・名護市の県立病院へ入院するはめになってしまった。病室はかなり広く、ベッドが六つあった。病棟が小高い丘の上にたっているので、広々とした二階の窓から街の屋根のかなたに、嘉津宇岳(かつうだけ)や名護湾が眺められ、夕方、西日がはいる難点があるほかは、快適とさえいえた。
 一九四一年(昭和十六年)に沖縄の中学を卒業して以来、時たま帰ることはあったが、住みつくのは三十四年ぶりである。その間、戦争あり、米軍の支配あり、日本復帰ありであらゆる面が激変しており、私自身、浦島太郎になったような気分で、すべてがもの珍しく、あれも、これも、見たい知りたいと思っていたのに、病室へとじけmられることと相なった。同室のT氏は、八十才をすぎて、白血球が減少する奇病にかかっていたが、かなり元気よく、枕もとによく話しかけに来てくれた。かつては「シベリア出兵」にも参加したことのある、六尺ゆたかな偉丈夫で、沖縄のいわゆる海人(うみんちゅ)である。海と共に生きている人である。激しい潮風のせいか、耳は大分遠くなっていたが、眼は達者でめがね無しで新聞がじゅうぶん読めた。波のうねりや、潮の流れ、雲の行方や形や色で、天候を判断し、海上で、あるいは海中で、絶えず魚を追いつづけ、夜空に拡がる星の位置によって方向を見定めた、たしかな眼である。子供の頃、誰かにもらった銅メダルの、浮彫の老トルストイのような、きびしい風貌があった。
 話をきいてくれる相手があると、いつも魚をとる話をしかけた。伊江島(いえじま)と本部半島(もとぶ)の間(海洋博がおこなわれたところ)の界面が真黒くなる程「かつお」の大群が泳ぐ様子。自分よりも大きい「さわら」をサバニ(沖縄の漁夫が使う小舟)からしとめ、半日も格闘をつづけた話。岩礁に住む「蛸」をとる、独特の道具を考案した話。山原(やんばる)のどこそこの村の沖あいの海の底は、どうなっており、いつ頃、どのような魚がどれ位移動してゆくか、それをとるにはどうしたらよいかなど、あたかも自分の庭のように海について語り、自分の一族のように魚について語った。
 魚の群の上にサバニが乗っているような、わんさと魚がいる場合でも、そう多くはとらなかったそうである。人の多い南部の街へ、魚の鮮度を落とさずに運ぶには、それ程多く小舟につむことが出来なかったからである。網で魚をとる場合、小さい魚は全部海へ放したそうである。海人(うみんちゅ)にぜいたくは縁がなかったのでしょうか。老人の眼は大ものをしとめた話になると益々輝き、せきこんで、訛りの強い方言を使うので、こちらで理解出来ず、是非知りたいと、聞きかえしても、耳が遠く、所詮、無駄であった。結局、こちらがうなずくばかりであった。
 この老漁夫の家は、海洋博会場のすぐそばにあり、魚をとるどころではなくなったことを口惜しがった。海洋博がおわり、海岸が静かになったら、体力のいらない「蛸とり」を専らしたいとわらった。
 やんばるの原野が開発され、パインが植えられたために、土砂が海へ流出し、珊瑚をおおい、こうして、海はだいぶよごれているようであるが、魚はまだかなりいるとのことであった。自然のサイクルをまもり、豊かな海を維持するには、どのような生き方をすればよいのだろうか。

  病漁夫の訛に匂う珊瑚海
  窓外の海へ病老の腕の黒き
  眺海が至福と老漁夫よこたわる
  漁夫病めば青銅のトルストイとなり

 病状がかなりよくなった頃、看護婦の眼をぬすんで、よく老人から刺身を御馳走になった。老人の弟子の漁夫の差しいれであった。

  南島や病床で海豚くらいけり


出典は不明。「去年の四月、沖縄へ移ると、しばらくして病気で倒れ・・・」の記述や、名護病院に入院についての記述等により、執筆時期は名護に移住後1年くらいたった頃と推測されます。また地理の記述もあるので、沖縄以外で読まれることを前提とした感があります。


1976.11.20 随筆アラカルト 私と絵画


1976.11.20 随筆アラカルト 私と絵画 新聞社不明


 夜明け前の薄闇につつまれた、鏡のような名護湾の入り口を、Pituの一群が静かに過ぎてゆく。白い石を満載した舟が、こっそり沖へ向かう。たくみにPituのうしろにまわったイチマナーたちが、白い石を投げこみながら群を湾の奥深く追いこんでゆく…。
 静寂に覆われ深い眠りから醒めやらぬグスク部落に突然ほら貝が鳴りひびき「Pituドオイ!」の声が湧きあがる。白い衣服を身につけて(黒いPituとまちがえられて傷つけられたら大変だ)モリ、綱、ざる、馬穴などを手に手にもって、老若男女がいっせいに戸外へとび出し、スージ・スージの福木の並木にたてかけられた舟をかついで、浜辺へくり出す。ウミンチュの指示にしたがい、Pituとの壮絶なたたかいが始まる。小さなサバニは右に左にと引きずりまわされ、中には綱を握ったまま、海中へ引きずりこまれる者もあったとか…元気な若者は、Pituに抱きつき、潮を吹き上げる呼吸孔をふさぎ、頭を岸にむけ、浜辺へ乗り上げていったとか…浜の女子供もPituに綱をまきつけて、上の方へ引きあげる。しらじらと明けはなたれた湾は、一面、赤い血に染められていた。Pituの肉はPituとりに参加した部落の人々全員に配分された。
 「キヤーギミソーレー、Pituヌスーシキ!」
 しばらくの間は、毎日のようにPituのにおいが家々の台所から流れた。
 これは、老人が語った今から五十年ほど前の、名護の風物詩の一節である。そのころ、私は三つか四つぐらいであったが、グスクの浜には、大きなブリグラーがあり阿檀が青々と繁っていた。大きな福木の生垣の外側には、さらに、きれいにあまれた竹の垣がしつけられ、家々の井戸には、鰻・鯉・ミキユーなどが住みついており、その冷たい、清冽な湧水がありありと想い出される。何ともすがすがしい部落であった。
 ヤマーヌパンチという私の家も、その中にあって、家のウーラジャにyama:tunchuの絵かきが逗留していた。私はよく煙草を買いに行かされた。たいてい一銭か二銭の駄賃がもらえたし、何とはなしに神秘めいたウラージャの絵をみることもできたので、勢よく煙草屋へ走ったものだった。後に聞いた話だが、Pituがよった日、スケッチブックをかかえたひょろひょろした白面の絵かきが、いきなりPituとりの舟の中へ乗りこんできたことがあった。
 「エー・プリムヌ!」
 おどろいたのは舟の人々である。このはげしいたたかいの中で、海にふりおとされ、Pituとまちがえられて突きさされたらおしまいだ。力づくで引きずりおろそうとしたが、舷(ふなべり)にかじりついてなかなか離れようとしなかったそうである。水彩画家として、日本人にも知られている、イギリスのターナーは、嵐にもまれる船のマストに自分の体をしばりつけ生命がけで、荒れ狂う海や空の動きを観察したといわれているが、これと似たような絵に対する一途な執念がしのばれる。
 ウラージャの絵の中で、今でもありありと想い出されるのは、壁に立てかけられた大きな油絵である。おそらく一〇〇号の絵であったろう。新聞配達らしい若い労働者が、暁の街並を背景にして道路にすっくと立ち、まさに仕事に出かけようとしている図で、ひきしまった青年の顔だちと共に全体から、すがすがしい力強さが感じられた.色調は灰色がかったブルーを主張とし、やや重々しい感じ。どうしてこのような気迫のある絵が、あの弱々しい絵かきから生れたのであろうか、と思われる程であった。
 絵かきはしばらくして本土へ去ったが、「轟の滝」と「名護町風景」がその後も家に残っていた。「轟の滝」は重厚な油絵で大きな岩をリアルに描いてあった。小学校六年生のころそれをモデルに水彩画を描いたことがある。「名護町風景」はナングスクからの遠望で、名護湾と嘉津宇の山々を背景とし、あざやかな白い浜辺の手前に、福木・がじゅまる・せんだん・赤木などの豊かな緑が町をおおって拡がり、その中に、茶色味がかったうす墨色の茅ぶき屋根が見え隠れしていた。この絵を模写したのは、たしか油絵を描き始めた中学二年か三年のころだったように思う。残念ながら、これらの絵は戦争で全部失われた。この絵かきのものとしては、祖母を描いた一点だけが、戦災から守られて、あちらこちらいたんではいるものの、現在も残っている。
 「祖母の肖像画」が描かれた一九二〇年代の中ごろ(昭和の初めごろ)には、もう名護の町にも電灯がともっていたが、それはきわめて頼りないものであった。夜ともなると、部落をつつむ静かな夜空へ、電気会社の発電機の単調な音だけが、妙にはっきりと拡がった。ーパタンパタン・パタンパタン・パタンパタンーーところが、時々ーーパターンパタン・パターンパタンと青色吐息という状態になる。すると下方に硝子のtugaiのある裸電球が、スーと消えかかる。ただでさえ、うす暗い部屋がなお一層暗くなる。台所の囲炉裏の側の板の間に、むしろを敷いてよこたわる祖母の足を、私は毎晩のように、この電灯のもとでもんだものだった。固い筋肉をつつんでいる、たるんだ皮膚は、かさかさに乾いて無数のしわがよっていた。なめされた、うすい皮のようにすべすべした、その肌ざわりが、今でも指先に残っているようだ。
 夜の十時ごろになり、発電機がパッタン!と大きな息を吐いて止まってしまうと、あたりは真暗な闇となり、囲炉裏のちょろちょろしたほのおが、いきもののように躍っていた。
 当時、ヤーヌシンカの外に豚・牛・馬・山羊と家畜も多かったので、たべるいもの量も相当なものであったにちがいない。井戸の側に大きな黄色っぽい石をほり抜いて作った石ドォーニーがあった。直径一メートル、暑さ一〇センチになんなんとする、お椀のお化けのようなごっついものであった。それにいもを入れて足でごしごし洗った。シンメーナービにいもをいれてたく、その燃料のタムンもかなりの量を消費したものと思う。祖母は七十歳をすぎても重い斧をふりかざしてタムンワヤーをする程働きものであった。O字型にまがった足をひきずって、いつみても、何か仕事をしている祖母の姿が浮かぶ。
 私はヤーヌシンカと共に、四角の盆に盛られたアチファンファンのいもをほおばり、シルで流し込むのが大好きであったが、祖母は「ワッタ、ウマーガ・ワッタ、ウマーガ」といって、魚・肉・卵やきなど、何か一品料理をいつもサービスしてくれた。祖母は細い眼をし、しわだらけの、丸味のあるやさしい顔だちであった。
 しかし、肖像画からは、いくぶん変わった印象を受ける。一日に半地間か、あるいは一時間以上も琉球絣を着こみ、他人行儀の輻輳をして、yama:tunchuの油絵かきのモデルにされるなどということは、全く場ちがいの感じであったにちがいない。しかもきわめて生真面目であったらしい絵かきと相対して、思わず、きびしい表情になったのであろう。仕上がるまでに、相当の時間がかかったものと思われるので、祖母もかなりの忍耐力を要したのではないか。どこかしら苦しげなところもあるようだ。対象の本質を執ように追求する絵かきの気迫が、画面のすみずみから感じられ、重厚な肖像画になっている。この絵の前に坐ると、祖母(パッパー)はじっと、こっちをみつめて語りかけてくるような気がする。
「キバーランキネーナランドォー・キバーランキネーナランドォー・ワラーイ」

(筆者はアマチュアの権威ある絵画作品コンテスト「サロン・デ・ボザール展」で大賞を授賞)


掲載:yas