2012年8月26日日曜日

1992.1.17 沖縄タイムス 唐獅子「ジュゴンの嘆き」



ジュゴンの嘆き

 小学校へ入学したころだから、もう六十年も前のことである。初冬の、晴れた、すがすがしい朝、名護湾の砂浜に、異様な生き物が引き揚げられていた。体は豚のようにずんぐりした紡錘形。後肢はなく、イルカそっくりの尾鰭。前肢は胸鰭になっている。顔には小さな、かわいい眼、併し、耳も鼻もめだたない。ちょうど、象の鼻を根っこから切りとって、その部分をそっくり、大きな口に仕立てたような、何とも奇妙な格好である。私は今でも、その姿を、名護湾の美しい砂浜と共に、ありありと想い浮かべることが出来る。
 この動物はジュゴン(沖縄ではザン、またはザンヌイュウ)と呼ばれ、熱帯・亜熱帯の珊瑚礁の浅い砂地に生える海草を常食としていた。一生海の中でくらすが、鯨のように大洋へ出るとはなく、岸辺の近くに住む哺乳動物であった。ジュゴンは敵の攻撃から身を守る、鋭い牙も、爪も、もっていない。逃げ足ものろく、遠くへ逃げ出すことも出来ない。従って、波にゆらめき、果てしなく拡がる海草の自然牧場の中でのんびり生きていた。このやさしい、無防備の生きものは、その肉のうまさを知ったヒトの攻撃にさらされると、ひとたまりもなかった。今では、国際保護動物に指定され、絶滅に備えて捕獲が禁止されている。沖縄の沿岸でも、お目にかかることは滅多になくなった。
 私の友人によれば、子供の頃パッパー(名護ではお婆さんのこと)は次のように話したそうである。「ー波の荒い、寒い冬の夜更けには、ひがし海岸から山ごしに、聞こえてくる風や波の音にまじり、ザンの悲しい、悲しい、泣き声が、かすかに、かすかにきこえてきたものさあー」。
 ジュゴンは声を出して泣かないとのことである。まして、ひがし海岸から聞こえてくる筈がない。パッパーはヒトによって食いつくされてゆく、ジュゴンの声にならない嘆きの深さを、感じとっていたのであろうか。

沖縄タイムス 唐獅子 1992年1月17日