ヨーデルの酒場
夕方、チューリッヒに到着し、湯食をすますと、スイスの民謡・ヨーデルをききに出かけた。ヨーデルというからには、牧場の山小屋で、窓からは夕空が見えて、きっと寒いところで、案内のタクシーは古い街の中心部へ乗り入れた。せまい薄暗い入り口をはいると、スイス・シャレー(山小屋)風の酒場であった。正面の数段低くなったところが舞台で、まわりが次第に高くなり、テーブルや椅子が適当においてある。百人程はすわれるだろうか。舞台を楽しみながら一杯やるという寸法である。五メートルはあろうかというアルプスホルンの低いが力強い演奏が終り、はりのある、かん高いヨーデルの歌声が、直径五十センチ程の大きな牛の首にぶらさげる鐘のジャラン、ジャランという音、牛の鳴き声の擬音までが入りまじって、部屋の中にひびきわたる。スイスの谷や山へ流れる歌声が、部屋の中へ圧縮され、野性的な活気があふれそうだ。
青年から老人まで男女が一緒になって、眼を輝かせて談笑し、大いに食い、かつ飲んでいる。ヨーデルの内容はスイスの自然や人情をうたったものにちがいない。酒に酔っているというよりも、歌に酔っているという感じだ。このいかにも楽しいふんいきに、こっちもまきこまれてしまう。ドイツ語でさかんに話しかけてくるが、さっぱりわからない。ただ気分はわかるので「ビッテ」とか「ダンケ」とかいって、こちらも、うなずき、笑い、大いに飲む。そのうちお客が歌に合わせて体をゆすり始めたかと思うと、時々、ヨッホ!ヤッホーとさかんに噺す。皿に熱がこもると、隣の人の肩に手をかけて、共に体をゆすり、ヤッホという囃しのところで、立ちあがらんばかりに大きく背伸びする。私も一緒にヨッホーである。人種のちがいも、極東の暑い島国と、寒いアルプスの山国との地理的なへだたりもすべてを忘れて、共に楽しく生きることの尊さみたいなものを認めあう、ある種の熱っぽい友情を共有する。
翌朝知ったことだが、このスイス・シャレー風の酒場は、リマット河畔の旧市街の真ん中にあり、五百年の歴史をもつとのことであった。たった一晩というあわただしい日程にもかかわらず、チューリッヒの印象は、そのロマンチックな街のたたずまいと共に忘れ難い。
琉球新報 落ち穂 1978年6月8日