2012年8月27日月曜日

1992.5.22 沖縄タイムス 唐獅子「赤い『狂女』」



赤い「狂女」

 「フランス近代絵画家選」という画集で、カイム・スーチン(1893~1943)の「狂女」に出会ったのは1942年の夏。十五年戦争も末期に近く、ミッドウェー沖の海戦で手痛い打撃を受けた日本は、守勢に追いこまれていた。大学へ入学したばかりだというのに、何時、戦争にいくことになるかもしれず、行けばもちろん生命の保障はない。何をやっても無駄ではないかという、不安感や焦燥感が常につきまとった。
 たっぷりとしぼり出された絵の具を、荒々しく、かきまぜひきのばす、激しい筆触(タッチ)。その激しい動き(ムーブマン)からくる変形(デフォルマション)。煌めく強烈な色彩。それらがスーチンの絵の特色である。「狂女」は首をちぢめ、肩をすぼめ、自分を狂わせた体内の激情を抱きかかえ、抑えこむかのように両腕を組み、しゃがみこんでいる。異様に大きい、グローブのような手。ふり乱した髪。狂女がまとう、燃えたつようなガウンの赤。それらが互いに照応して、内面の不安感を見事に表現している。真正面に向き、悲しげに見開かれた大きい目。それは目に見えない、自分を狂わせているものの本体を見据える目。帝政ロシアのリトアニアで生れたユダヤ人スーチンは、この絵で、抑圧・差別・不条理を激越に告発する。
 「狂女」には、戦争という巨大な、暗い力におしひしがれた、絶望的な人々の心情を包みこむ、或る種の人間的やさしさがあった。「狂女」は私にとって、忘れ得ぬ絵の一つとなった。
 数年前「狂女」の原画を見たいと、大原美術館を訪ねたが果たせなかった。去年、浦添美術館で開かれた「ヨーロッパ近代絵画の流れ」の中で、はからずも「狂女」の原画と対面し、五十年ぶりに旧友に出会った感動を覚えた。荒々しいタッチにもかかわらず、赤(ヴァーミリオン)が、透明感に溢れ、深みがあって、輝くばかりに美しい。あらためて、スーチンのすごさをおもいしらされた。

沖縄タイムス 唐獅子 1992年5月22日