不思議な猪
空梅雨で、ずっと日照りが続いた去年、八月初めの夜明け、果樹園へ行ってみる。ハナウキンの茂みの中で、「グーグッグッ、グーグー」。低くやさしい、けものの声。私の跫音を聴き、「私はここだ。ハナウキンの花がうまいよ」と、自分の所在をあきらかにし、馴れ馴れしい様子である。はて?豚かな?
五,六メートルまで近づくと、体長五十センチぐらいの猪がとび出し、さほど離れていないベンシルーの樹の下で、鼻を土に突っこみ「グッグ、グー…ここのミミズはうまいなあ」と、言わんばかりである。タマゲタ。逃げようとしない。不思議な猪だ。
この小さな果樹園の土づくりは、数年前、サシミヤーの魚のハラワタを、息子がせっせと運んで、埋めこむことから始まった。除草剤、殺虫剤、無機肥料は一切使わない。お蔭で、土の中に微生物が増え、ミミズが縦横に動き、酸素が豊富らしい。ホカホカして、その上を歩くと気持ちがよい。土が生きている。猪も気持ちよさそうに、ほっつき掘る。
東の尾根から、朝の太陽が顔を出した。帰り支度に取り掛かる。いつの間にか、猪の姿が見えなくなっている。夕方、果樹園に来て、暫くたつと、茂みのなかから「グッグッ、グー」と、猪の声。そんな日が数日続く。どうやら、果樹園を自分のテリトリーにし、朝晩訪ねて来るようだ。日照りが続き、食料が不足したせいか?もっともここらあたりは、もともと、猪の縄張りだった筈である。
八月も末になり、ベンシルーの実が、大きくふくらんだ。例年よりも甘くなるかも知れないと、期待した矢先、地面に垂れ下がった実を食い始めた。これはたまらんと、小石をぶつける。尻に当たり、ちょっと跳ねたが、逃げる気配がない。困ったものだ。
生け捕りにしようと、罠をしかけた。ところが、翌日から、プツリと姿を見せなくなった。ホッとしたものの、さてはヒトの魂胆見破られたかと、淋しく、侘しかった。
沖縄タイムス 唐獅子 1992年5月8日