1976.11.20 随筆アラカルト 私と絵画 新聞社不明
夜明け前の薄闇につつまれた、鏡のような名護湾の入り口を、Pituの一群が静かに過ぎてゆく。白い石を満載した舟が、こっそり沖へ向かう。たくみにPituのうしろにまわったイチマナーたちが、白い石を投げこみながら群を湾の奥深く追いこんでゆく…。
静寂に覆われ深い眠りから醒めやらぬグスク部落に突然ほら貝が鳴りひびき「Pituドオイ!」の声が湧きあがる。白い衣服を身につけて(黒いPituとまちがえられて傷つけられたら大変だ)モリ、綱、ざる、馬穴などを手に手にもって、老若男女がいっせいに戸外へとび出し、スージ・スージの福木の並木にたてかけられた舟をかついで、浜辺へくり出す。ウミンチュの指示にしたがい、Pituとの壮絶なたたかいが始まる。小さなサバニは右に左にと引きずりまわされ、中には綱を握ったまま、海中へ引きずりこまれる者もあったとか…元気な若者は、Pituに抱きつき、潮を吹き上げる呼吸孔をふさぎ、頭を岸にむけ、浜辺へ乗り上げていったとか…浜の女子供もPituに綱をまきつけて、上の方へ引きあげる。しらじらと明けはなたれた湾は、一面、赤い血に染められていた。Pituの肉はPituとりに参加した部落の人々全員に配分された。
「キヤーギミソーレー、Pituヌスーシキ!」
しばらくの間は、毎日のようにPituのにおいが家々の台所から流れた。
これは、老人が語った今から五十年ほど前の、名護の風物詩の一節である。そのころ、私は三つか四つぐらいであったが、グスクの浜には、大きなブリグラーがあり阿檀が青々と繁っていた。大きな福木の生垣の外側には、さらに、きれいにあまれた竹の垣がしつけられ、家々の井戸には、鰻・鯉・ミキユーなどが住みついており、その冷たい、清冽な湧水がありありと想い出される。何ともすがすがしい部落であった。
ヤマーヌパンチという私の家も、その中にあって、家のウーラジャにyama:tunchuの絵かきが逗留していた。私はよく煙草を買いに行かされた。たいてい一銭か二銭の駄賃がもらえたし、何とはなしに神秘めいたウラージャの絵をみることもできたので、勢よく煙草屋へ走ったものだった。後に聞いた話だが、Pituがよった日、スケッチブックをかかえたひょろひょろした白面の絵かきが、いきなりPituとりの舟の中へ乗りこんできたことがあった。
「エー・プリムヌ!」
おどろいたのは舟の人々である。このはげしいたたかいの中で、海にふりおとされ、Pituとまちがえられて突きさされたらおしまいだ。力づくで引きずりおろそうとしたが、舷(ふなべり)にかじりついてなかなか離れようとしなかったそうである。水彩画家として、日本人にも知られている、イギリスのターナーは、嵐にもまれる船のマストに自分の体をしばりつけ生命がけで、荒れ狂う海や空の動きを観察したといわれているが、これと似たような絵に対する一途な執念がしのばれる。
ウラージャの絵の中で、今でもありありと想い出されるのは、壁に立てかけられた大きな油絵である。おそらく一〇〇号の絵であったろう。新聞配達らしい若い労働者が、暁の街並を背景にして道路にすっくと立ち、まさに仕事に出かけようとしている図で、ひきしまった青年の顔だちと共に全体から、すがすがしい力強さが感じられた.色調は灰色がかったブルーを主張とし、やや重々しい感じ。どうしてこのような気迫のある絵が、あの弱々しい絵かきから生れたのであろうか、と思われる程であった。
絵かきはしばらくして本土へ去ったが、「轟の滝」と「名護町風景」がその後も家に残っていた。「轟の滝」は重厚な油絵で大きな岩をリアルに描いてあった。小学校六年生のころそれをモデルに水彩画を描いたことがある。「名護町風景」はナングスクからの遠望で、名護湾と嘉津宇の山々を背景とし、あざやかな白い浜辺の手前に、福木・がじゅまる・せんだん・赤木などの豊かな緑が町をおおって拡がり、その中に、茶色味がかったうす墨色の茅ぶき屋根が見え隠れしていた。この絵を模写したのは、たしか油絵を描き始めた中学二年か三年のころだったように思う。残念ながら、これらの絵は戦争で全部失われた。この絵かきのものとしては、祖母を描いた一点だけが、戦災から守られて、あちらこちらいたんではいるものの、現在も残っている。
「祖母の肖像画」が描かれた一九二〇年代の中ごろ(昭和の初めごろ)には、もう名護の町にも電灯がともっていたが、それはきわめて頼りないものであった。夜ともなると、部落をつつむ静かな夜空へ、電気会社の発電機の単調な音だけが、妙にはっきりと拡がった。ーパタンパタン・パタンパタン・パタンパタンーーところが、時々ーーパターンパタン・パターンパタンと青色吐息という状態になる。すると下方に硝子のtugaiのある裸電球が、スーと消えかかる。ただでさえ、うす暗い部屋がなお一層暗くなる。台所の囲炉裏の側の板の間に、むしろを敷いてよこたわる祖母の足を、私は毎晩のように、この電灯のもとでもんだものだった。固い筋肉をつつんでいる、たるんだ皮膚は、かさかさに乾いて無数のしわがよっていた。なめされた、うすい皮のようにすべすべした、その肌ざわりが、今でも指先に残っているようだ。
夜の十時ごろになり、発電機がパッタン!と大きな息を吐いて止まってしまうと、あたりは真暗な闇となり、囲炉裏のちょろちょろしたほのおが、いきもののように躍っていた。
当時、ヤーヌシンカの外に豚・牛・馬・山羊と家畜も多かったので、たべるいもの量も相当なものであったにちがいない。井戸の側に大きな黄色っぽい石をほり抜いて作った石ドォーニーがあった。直径一メートル、暑さ一〇センチになんなんとする、お椀のお化けのようなごっついものであった。それにいもを入れて足でごしごし洗った。シンメーナービにいもをいれてたく、その燃料のタムンもかなりの量を消費したものと思う。祖母は七十歳をすぎても重い斧をふりかざしてタムンワヤーをする程働きものであった。O字型にまがった足をひきずって、いつみても、何か仕事をしている祖母の姿が浮かぶ。
私はヤーヌシンカと共に、四角の盆に盛られたアチファンファンのいもをほおばり、シルで流し込むのが大好きであったが、祖母は「ワッタ、ウマーガ・ワッタ、ウマーガ」といって、魚・肉・卵やきなど、何か一品料理をいつもサービスしてくれた。祖母は細い眼をし、しわだらけの、丸味のあるやさしい顔だちであった。
しかし、肖像画からは、いくぶん変わった印象を受ける。一日に半地間か、あるいは一時間以上も琉球絣を着こみ、他人行儀の輻輳をして、yama:tunchuの油絵かきのモデルにされるなどということは、全く場ちがいの感じであったにちがいない。しかもきわめて生真面目であったらしい絵かきと相対して、思わず、きびしい表情になったのであろう。仕上がるまでに、相当の時間がかかったものと思われるので、祖母もかなりの忍耐力を要したのではないか。どこかしら苦しげなところもあるようだ。対象の本質を執ように追求する絵かきの気迫が、画面のすみずみから感じられ、重厚な肖像画になっている。この絵の前に坐ると、祖母(パッパー)はじっと、こっちをみつめて語りかけてくるような気がする。
「キバーランキネーナランドォー・キバーランキネーナランドォー・ワラーイ」
(筆者はアマチュアの権威ある絵画作品コンテスト「サロン・デ・ボザール展」で大賞を授賞)
掲載:yas