2011年9月3日土曜日

1990 新沖縄文学 「鳥になった瑠璃光寺五重塔」






鳥になった瑠璃光寺五重塔    新沖縄文学1990 No.84

 昭和19年1月10日付で妹へ送られた、詩人・三浦一衞のはがきには次のことが書かれている。
「……羅甸語(ラテンゴ)、希蠟語(ギリシャゴ)も夢になつた彼の心中はどうでせう。隔絶も死も生も一瞬時ではないか、たつた今ではないかといつた様な思ひもされます。はりつまつて、弾け飛びさうな生活を営みたいものです。
 兄さんの所属部隊をお知らせ下さい。ボードレールを熟読されんことを。……」
 私が都城の西部17部隊へ入営したのが、昭和18年12月1日で、第1次学徒動員によるものであった。戦地へ赴く兵士や、帰還した兵士でごったがえしている兵営の片隅にずっしりと重く、梃(てこ)でも動きそうにない、肉の塊のような、ふてぶてしい集団が屯していた。多くの人々を殺してきたばかりの、彼等の眼の、兇暴で無気味なにぶい輝き、生きた人間の眼とも思えぬ、底知れぬ異様な暗さが、今でもありありと憶い出される。雪深い高千穂の軍事教練で、私の手の甲は、凍傷により、ぐちゃぐちゃになった。汗で湯気のたつ、襦袢の襟の縫目には、虱が発生し、洗濯する時、ぞろぞろと這い出してきた。
「羅甸語も希蠟語も夢」の又、夢であった。
「生も死も一瞬時ではないか」まさに毎日毎日、何千何万という人々が命を失っていた。
 昭和19年8月25日付の2枚つづきのはがきには、次のことが書かれている。
「愈々来年3日の入院、忙しい中に一筆啓上。
 新しい生を得る為に、━━あゝ得られるかどうか━━お互に然り、お互に前進です。僕たちは身に、この肉体に、真実を培わねばならぬのです。「真実」、何でせう。貴女は勿論首を傾けるでせう。しかし、もう懐疑なんか旧い。しかも手遅れだ。貴女は知つている。嘗つて、そして、時々瞥見しているのだ。或はランボオの裡に或は自然の中に、人間に。そいつを育てねばならぬ。……
 死ぬと云つたら死ぬのです。ランボオはかう云つてゐるではありませんか。「俺は地獄にゐると信じている。だから俺は地獄にゐる。」何という力でせう、心根でせう。……
 総ての苦悩体験は着実な歩みとしての試作と探究に捧げられるでせう。お互ひすつかり変つて、というのは原始の数畝を前にした子供となつていつか又逢ひませう。……」
 最後までランボオにこだわり、試作の探究に没頭した三浦の姿がうかがわれる。
 彼にとって、戦場とはどんなものだったのだろうか。それから半年余、昭和20年5月16日、沖縄で鉄の暴風が荒れ狂っていた時、彼はフィリピンの東方山中で、米軍の砲弾の破片で頬をえぐられ戦死した。
「原始の数畝を前にした子供たちとなつていつか又逢ひませう」という文章に接する時、文字通り、断腸のおもいで、身が裂かれるようだ。戦後の混乱の中で「子供たち」の一人として、新しい人生を歩もうとしていた私にとって、三浦はかけがえのない人だったからである。
 戦後、彼の遺稿詩集を出版したいと思いつつ出来ずにいたが、半世紀近く過ぎた去年の秋、やっと出版にこぎつけ、長い間の念願がかなえられた。今年の4月5日、友人や縁故の方々が、島根県津和野町の光明寺につどい、遺稿詩集「流れ星」を彼の霊前に捧げ、追悼の法事をおこなった。
 清冽な流れにさからい、体長五十糎はあろうかという、色鮮やかな緋鯉や真鯉が、悠々と群れ泳いでいる津和野川の岸辺も、静かな城下町の武家屋敷や、古いどっしりとした商家の立ちならぶ街道筋も、おりからの暖冬で満開となった桜の花で覆いつくされた。寒さがぶり返し、昨夜降った雪で、山の頂は白く輝いている。その花冷えの中で、日本で最もよく保存されている「やぶさめ馬場」の矢よけの石垣も花吹雪で煙っていた。日本最初の哲学者といわれる西周(にしあまね)や森鴎外をはぐくみ、情趣深い手漉きの和紙を作りつづけてきた津和野の里。「僕は伯母の影響をうけているようだよ」と、彼が語っていた、昭和初期の新劇女優・伊沢蘭奢(いざわらんじゃ)の墓の側は、いかにも彼が眠るのにふさわしい場処のように思われた。
 津和野からの帰り途、大内氏が15世紀に創建した、山口市の、国宝・瑠璃光寺五重塔を訪ねた。和様と唐様が程よくとり入れられ、屋根の勾配のゆるやかさ、軒の出の深さ、相輪の長さ、形が、微妙に調和し、全体がなんとも言えぬ、夢幻的な美しさ、力強さに満ちている。塔の前の大きな楠の新芽が、春風に乗って一斉に揺れ動き、透き通った紺碧の空に白雲が流れた。見上げると、塔は一瞬、ざわざわとざわめいて、羽を拡げ、大空へ舞い上がろうとする鳥となり、病をいやし衆生を救う、大蓮華に乗った、瑠璃光如来の輝きに、つつみこまれていくように思われた。
 三浦一衞の戒名は「大智院一誉殉国乗蓮居士」である。