2012年9月15日土曜日

1984.8 「馬糞としっぽ」新生美術第3号



馬糞としっぽ

山之端一博

 馬糞はその形といい茶緑がかった色といい、アンコロ餅といった感じの柔らかさ加減といい単純整然として美しい位だ。人間のそれの複雑・怪奇・多種・多様さとはひかくにならない。
 馬が糞をする時は、しっぽを天に向って引き上げ、あのふさふさした長い毛を風になびかせて、軽く四つの足をふんばり、開放され、膨張して、わずかに外部へせり出した肛門部に、五、六個かたまって、ひしめいているアンコロ餅をポロリ、ポロリと落とす。
 その姿は悠然としてすがすがしい。
 併し、いつもこのように悠然とはゆかない。
 戦前、那覇の港に近かった私の家の前の道路は移出する砂糖樽を運搬する馬車でごったがえした。サーターヤーで作られた黒糖は樽に流しこまれ、固められて、馬車に積みこまれた。農村地帯から那覇にくる迄には相当な時間がかかるし、排泄したくなるのも当然である。然し、悠然とおこなう訳にはゆかない。後から馬車がせまってくるからだ。やむを得ず、しっぽを上げると歩きながらポタリ、ポタリとやった。
 一回、五、六十個のアンコロ餅を一日、7,8回以上は排泄するので、その量は相当なものだ。那覇市でも比較的早く舗装された家の前のセメント道路の上にも馬糞がまき散らされた。
 馬糞はパサパサとまではゆかないとしてもあっさりとして粘着力も弱い。馬車の鉄の轍に押しつぶされて、センべーのようにペシャンコになった糞は、亜熱帯のギラギラした太陽に照りつけられるとひとたまりもなかった。栄養分を吸いとられた草の繊維は粉々になり、三重城の沖から吹いてくる潮風にあふられて、屋根の上まで舞い上がった。部屋の中を箒ではいても、すぐ畳や机の上が粉っぽくなった。畳の間や天井裏など箒のとどかないところには粉がたまったにちがいない。蚤の幼虫は動植物性のゴミを好むというから、蚤が多かったのもなる程とうなづける。
 第二次世界大戦の頃までは、日本の陸軍にも軍馬がかなり飼われていた。したがって部隊には馬を世話する為に厩(うまや)当番というものがおかれた。人間にも癖があるように馬にも癖がある。軍隊にも色んな癖の馬がいたが、咬癖の馬は当番を困らせた。馬の歯は人間の前歯のようなものが沢山ならんでいる。私は歯が悪いせいか歯が美しいとは思わない。入歯をみると悲しくなる。馬は草食で肉をくう筈はないのだが、馬は歯をむき出すと気味が悪い、こわい。咬癖の馬は馬相?が悪く目つき鼻つきタテガミの形から身のこなしまで、馬が合わないというか、敬遠したいような雰囲気をもっている。勿論それは人間の勝手で馬のせいではないのだが、このような馬にかぎって相手が敬遠していると思うと益々歯をむき出して咬みついてくるから始末が悪い。しかし、咬癖にもまして、困るのは蹴る癖である。横へ蹴ったり、後へ蹴ったりする、打ちどころが悪いと命とりである。
 厩当番の仕事は色々あったが、その中の一つに肛門を雑巾でふきとるのがあった。馬の肛門を清潔にする為である。馬のまうしろに位置しなければならぬので危険この上もない。うしろから近づくとあぶないので、必ず馬の横っ腹へ近づき、馬にくっついて、馬の様子をうかがいながら、そろそろと尻の方へ近づき、すばやく、しっぽの根っこから十センチ程の処をにぎって上へ持ち上げる。大きな馬だと、丁度、人間の顔のあたりに、しっぽのつけ根があるので、ぐっと力を入れてしっぽを頭の上の方へ押し上げると、馬はじっとしている。どんな暴れ馬でもおとなしく、動かないそうである。
 馬のしっぽの根本は固くて弾力があり、野球の軟球より少し柔らかい感じの筋が通っている。その筋は尾骨から背骨、肩甲骨のつけ根へと美しい波状を描いて続き、更に首の骨から頭の骨へ達する。
 しっぽは馬の骨組を形成する急所の一つにちがいない。しっぽを持ち上げられ、腰が浮いたのでは何の業もしかける訳にはゆかないのであろう。

新生美術 第3号 1984年8月

1990「月刊美術」9月号掲載 南の星座、海、森の風


南の星座、海、森の風

 那覇の港の近く、珊瑚礁の埋立地で、潮の香にさらされ、潮の揺蕩の中で私は育った。潮のリズムへの共感は生まれつきのものである。海へもぐり潮の波動に身をゆだねて眼を開くと、鯛の群が私をとりまいて泳いでいた。私を不思議そうにみつめているギョロギョロした鯛の目付が忘れられない。
 父母の出身地は、山原といわれ、砂浜に面し、山野にかこまれた農村であった。私はよくそこへ遊びにいった。茅ぶきの家は夫々、福木(常緑高木の熱帯アジアの防風林)にとりかこまれて、全体として、集落というよりむしろ、福木の森という感じであった。常食であった芋を掘りにいったり、川へ蝦や鰻をとりに入ったり、森の中で目白を突きに行ったりして、一日中を過ごした。電灯が十分普及していなかった当時は、日暮れと共に星座がが頭上にあらわれた。明るい星空の下を大蝙蝠が黒い羽をひろげてとび廻った。
 大学を卒業して、奈良で仕事についたが、夏の休暇には、三重や和歌山の海へゆき、大台ケ原の原始林の中をさまよった。
 二十数年ぶりに帰ってきた沖縄は、戦争による荒廃から、見事に立ち直り、復興しつつあった。しかし、最近、開発の名のもとで、森や海岸が破壊され、島の人々の生活にもひずみが目立ってきた。そのような状況に対する抵抗や、島の自然や生活を守る活動もたかまりつつある。
 戦争へゆく前、ちょうど三浦とつきあっていた頃、私は森の中へ入るのが夢であった。この夢は戦争と戦後の激動の中で実現出来なかった。老境へ向いつつある今になって、水道も電気もない森へ入り、森の風に耳をかたむけ、星のまたたきにつつまれて生活したいと、準備しつつある。山小屋暮らしである。
 リズムのよい詩や、音楽の旋律やハーモニーが、人々をつつみこんで感動に導くように、画面が無限の拡がりをもち、呼吸しているような絵、見る者をゆっくりとつつみこんでしまうような絵を私は描きたいと思っている。「星座」や「海」や「森の風」はこのような絵に適しているようである。
 三浦の詩編「うみのまど」には、果てしなく、せつない海のリズムがある。「一本道」「徑」などには、森の風に吹かれて、樹や草や川のせせらぎに共感して、旅する漂泊のリズムがある。「流れ星」「征旅」には無限に拡がるスケールの大きいロマンがある。それは星座のまたたきにつながる。
 三浦は南海の潮に身をひたし、ジャングルの奥で森の匂いに感応したにちがいない。
 私は三浦へのレクイエムにふさわしいものとして、「南の星座」「海」「森の風」をモチーフに取り上げた。

1990年 「月刊美術」9月号掲載  銀座「フジヰ画廊」個展関連

1990.8.30 [南の星座] 山之端一博画集 詩人・三浦一衞に捧げる鎮魂の曲



[南の星座] 山之端一博画集 詩人・三浦一衞に捧げる鎮魂の曲 フジヰ画廊





あとがきより

森の風よ やわらかに吹け
南の星座よ 永遠に瞬け

 詩人・三浦一衞は、1945年(昭和20年)5月16日、フィリピン・マニラ東方の山中で戦死した。戦後しばらくして私は、彼の遺稿詩集を出版したいと思いながら果たせずにいた。3年前、藤井一雄さんと池田孝二さんも出版を熱望していることがわかった。妹・玉那覇直や大分の詩人・首藤三郎さん、三浦の義兄・川田彦馬さんとも連絡がとられ、三浦一衞・遺稿詩集「流れ星」が遂に陽の目をみ、フジヰ画廊から発行された。死後実に半世紀ちかくが経っている。三浦を中心にして結ばれている目に見えない不思議な絆を感じない訳にはいかなかった。
 今年の4月5日、友人、知人、縁故のある方々が、三浦の菩提寺、島根県・津和野の光明寺に集い、霊前に三浦一衞・遺稿詩集「流れ星」を捧げ、ねんごろに法要がとりおこなわれた。

 三浦との交友は、1942年6月から、私が第一次学徒動員で沖縄へ帰った、1943年の9月まで、わずか1年余であり、毎日のように彼と生活を共にしたのは、下宿が近くにあった最初の数ヶ月にすぎない。しかし、「…三浦の朗読をききながら、詩や戯曲への理解を深めた。それは私の感性を決定的に鍛練した。私は生きていく上で、極めて大切なものを与えられたと思っている。…」と、遺稿詩集「流れ星」の中の「追想」で書いたように、私にとって三浦はかけがえのない友となった。
 私は絵が好きだったので、大学の美術クラブでデッサンをしたり、戸山ヶ原や江戸川公園でスケッチをしたり、友人の肖像画を描いたりした。麹町平河町にあった三井コレクションで、初めてルオーの原画(女の半身像)をみて、その分厚い、圧倒的なマチエールからせまってくる、激しい生命感に、大きなショックを受けたのもその頃であった。
 首藤三郎さんは、遺稿詩集「流れ星」の、最後の詩編「征旅」の「作品解題」の中で、「…応召の前夜、燈火管制下の部屋で、彼が私に語ったのは、戦争やこれからの運命などについてではなく、ランボオの詩についてであった。」と書かれている。ランボオへの傾倒ぶりと、詩に対する探求心のすざまじさがうかがわれる。彼にとっては「詩」が「生命」そのものであった。私が絵を持続している一つの源は、このような彼の、詩に対するひたむきな姿勢の影響であろうと思われる。
 遺稿詩集を出したいと思ったのは、三浦の詩を評価したからではなかった。彼は古今東西の詩を紹介し、朗読してくれたが、自分の詩については余り語らなかった。当時朗読してくれた彼の詩は、「風景画」「光芒」「一本道」など、極く限られたものであった。しかし、きっとすばらしい詩を残しているにちがいないと、確信していたからである。遺稿詩集「流れ星」ではじめて「まど」以下「征旅」に至る詩篇に接し、やはり予想は的中していた。
 私は彼の詩に触発されて、「詩に形象化」に新たな制作意欲をかきたてられた。しかしこれは中々大変な仕事である。私はまた大きな研究課題を背負わされたようだ。画集の作品の一部は「詩の形象化」の試みである。
 川田彦馬さんは、妹への手紙で次のように書かれている。「…輸送船が魚雷をうけて沈没し、この時、福岡で編成された部隊の殆どが戦死して、弟は僅か十何人の生存者としてフィリピンに上陸したそうです。…戦友が見たとき、海水につかったので…父から貰った腕時計は、これも戦前のものですから錆びてこわれていたそうです。…戦友は喘息の発作はなかったようだと言っていました。からっとした南の国の風土と、前線での緊張感がきっと幸いしたのだと思います。ここまでは弟の前線での生活は順調だったと思うのですが…」
 三浦は、「見者」として南海の苦い塩水を味わい、強烈な紫外線に肌を焼き、砲弾の絶えた静かな時間には、「森の風」に耳をすまして、草の匂いをかぎ、「南の星座」に見入って、ランボオを想い、詩を想って、束の間の生命の時間を、雄々しく生き抜いたにちがいない。鎮魂の意味もふくめて、「南の星座」や「森の風」を捧げる次第である。
 今回、藤井一雄さんが、「山之端一博絵画展」を発案・主催して下さり、池田孝二さんが出品作を中心に画集を編集して下さり、杉浦康平さん、谷村彰彦さんが造本・デザインをして下さった。心から御礼申しあげる。
 絵画展中の9月3日は奇しくも旧盆である。三浦はフジヰ画廊にも訪れるであろう。三浦が愛唱していた「ルバイヤート」の一歌がきこえてくるようだ。

愛しい友よ、いつかまた相会うことがあってくれ、
酌み交わす酒はおれを偲んでくれ。
おれのいた座にもし盃がめぐって来たら、
地に傾けてその酒をおれに注いでくれ
  オマル・ハイヤーム 小川亮作訳・岩波文庫より


1990年8月30日


ルバイヤート  オマル・ハイヤーム→http://www.aozora.gr.jp/cards/000288/files/1760_23850.html