2012年10月22日月曜日

1979.8 「友をうしなう(戦争体験の一齣)」



友をうしなう(戦争体験の一駒)

山入端一博

 子供の頃、名護の町を流れる川へ、よく鰻をとりに連れていってくれたおじさんがいた。釣針に蛙を刺して穴の中へつっこむと鰻がくいつく。それを力一杯ひきずり出して、つかまえる。子供の僕にはそれをつかまえるのが大変であった。何とかつかまえてしまう頃には、体じゅう泥だらけであったが、何という楽しい日々であったか。おじさんはそれから暫くして山口県の方へ仕事で行ってしまったが、僕が中学へ入学した頃、久し振りで帰ってこられた。
 「お前、Pigとは何か知っているか?何!知らない! 豚だよ、豚! カードの表へPigと書き裏へ豚と書きなさい」
 僕に英語の勉強の仕方を教えてくれたのもこのおじさんであった。このおじさんにいわれるとふしぎに、すなおに勉強する気になった。併し、それから間もなく日中戦争がはじまり(1937)中国大陸へ出征されて戦死してしまった。
 若し、生きていてくれたらと、つくづく最近、何ものにもかえがたい貴いものを失ったと感じるようになっている。
 其の後、僕自身も軍隊に入った。外地へはゆかず南九州で軍務に服した。宮崎県の都城の部隊にいた時、丁度沖縄戦が始まろうとしていた時だと思う、部隊も空襲をうけた。爆音が急に大きくなったかと思うと、低く垂れこめた雲の間から、づんぐりしたグラマン戦闘機が突如、姿をあらわし、防空壕へ逃げおくれた僕めがけておそってきた。軒下に身をかくしながら戸外の壕の方へ走った。軒の瓦がパリパリとやられてくずれ落ちてくる。夢中で軒下から壕の方へとび出す瞬間、グラマンの方をちらっと見た。真正面から、機関砲で僕をねらいせまってくる兵士の大きな飛行めがねの顔が怪物のように眼底に焼きついた。しまった!と必死に壕の中へすべりこんだ。
 グラマンにねらわれていると気がついて壕に入りこむまで、ほんの数秒間である。壕へ逃げこむまでの僕の足跡と足跡の間に弾痕があった。ほんの一瞬の時間のずれで僕は死人でいた筈である。今でも、あの時の飛行士の大きなめがねをかけた非人間的な顔が頭にこびりついている。
 大学の同級生にM君がいた。フランス語、ドイツ語を勉強し、ラテン語、イタリア語、ギリシャ語にまで手をひろげていた。大分県の地方新聞に詩の批評文を載せる程、早熟な学生であった。或る日、高村光太郎へ会いに行こうという事になったが、途中でこわくなった。何しろ相手は日本を代表する大詩人である。予定を変更して山之口貘さんの処へ行くことにした。僕が沖縄出身なので行きやすいということだった。貘さんは牛込のアパートにおられた。気楽にお会いになり、近くの喫茶店でコーヒーをのみながら話をうかがった。詩一篇を書くのに何百枚も原稿用紙を使うのだと、作詩の苦労話をされた。帰る時になり貘さんは、体中何かさがしている様子であったが「すまん、金がないなあ」とにやっと笑われた。無一文で漂々と歩きまわるあたり、いかにも貘さんらしいなあと思った。
 戦後、生きながらえて、何をなすべきか悩み、再び大学へ戻った時、M君にあって将来の方針を決めようと思った。彼だけがたよりであった。併し、彼は、僕が入隊して間もなく召集をうけ、南方戦線に行き、ガダルカナルで戦死したときかされた。僕は眼前が真暗になる思いであった。あまり丈夫でなく喘息の持病をもっていた彼が野蛮な殺戮の場で無惨に殺され、彼のもっていたすばらしい知性と豊かな感受性が一瞬にして消し去られたかと思うと、怒りが腹の底からこみあげてきた。



※「M君」は、三浦一衞と思われるが、戦死の地がガダルカナルとある。