2012年10月22日月曜日

時期不明 「流れの中で(1)」



流れの中で(1)

山之端一博

漂よう少年時

驛の夜明━━━雀の群が、木の梢、屋根
の端へと群れ騒ぐ。少年はベンチに眠り
不思議な夢をかきいだく。 小麦色の少
女よ。汽車に乗って旅立う。土もあり、
植物もあり、木もあり、石もある。家を
作り、服を作り、五線紙の上へ新らしい
風景を定着しよう。風も水も日光も、新
たな結合の中で輝やくことだろう。東の
空からヴェールがはがれ、芝井は今、始
まろうとしてゐる。いともやさしく、い
ともものやわらかに。━━いざとなった
ら叩き合ひ泉のふちに寝轉がる迄さ。
朝だ。朝だ。夢は日光にとけて赤く輝く。

朝━━━光は肉体をつき刺す。汚物は流
れ去る。脳葉は鋭く柔らかく━━一個の
海綿となる。人間の形、動き、量が、次
々と収穫され、次々と刈りとられ━━━
細胞の廻轉は、快適なリズムとなる。山、
川、丘、谷、森━━花の咲きこぼれた湖
畔、或いは泉の蔭。露の閃き。━━銀波
の輝き。少女の髪が朝風におどり、微笑
は新鮮な果実となる。青空へ立ち昇る、
オレンジ色の火山灰。その向うへ虹。
溢れこぼれる光の饗宴。

港━━━少女の死。幻影の逃亡。船は港
に止って動かない。少年は突堤の突端で
じっとたたずむ。海を漂ようけし粒。黒
い点。絶え間ない動揺。海の唄。少年は
海底へ沈む。……大空をかけ昇る白馬の
群………窓辺に開かれた空白のノート。
しのびよる曙。移り行く影。洗われた甲
板の冷たさ。少年の背中に伝わるエンジ
ンの始動。船はゆたゆたと沖へ漂よう。
音のないドラ。はためくマストの信号旗。
野蛮な、未知の、黄色い港。

漂よう船━━━黄色い濁流を水死人の群
が流れる。捨てられた木箱の中の閃めく
宝石。椰子と阿檀葉と共に珍奇な昆虫も
流れる。黒人女パスカの乾いた笑いも流
れる。━━━今、黒い貨物船は北にある。
灰色の海と、灰色の空と、灰色の霧の中
にある。帆はハタハタと白く輝やき、マ
ストは銀色にこおりつき、氷山が左右に
漂よう。岩石の肌は鋭角にとぎすまされ、
光と影が、ノミの刃となって砕け散る。
船底に石炭は赤々と燃え、スコップを握
る火夫は船長である。船窓からのぞけば
氷原を走る銀狐の群。群狼の遠吠。━━
貨物船は漂ひ進む━━太古の洞穴、輝や
くオーロラ、閃めく風光、未知の色彩 
━━開かれざる歴史━━ 氷原に埋れた
原初の跡。

北の国━━ゲルマン人は、冬の木立の間
を、山犬をつれて鹿を追い、南へ降りる。
枯れた立木。ポキポキと小枝の折れる音
が谷間をわたる。雪の原野に鹿の足跡。
谷を滑り降り鹿を待つ。━━━しッ。樺色
の枯葉のしげみにかさかさする音だ。一
瞬、白いしじま。閃めく槍。鹿は声も立
てず、赤い血は湯氣をたてて雪をとかす。
枯葉をあつめて火をたこう。肉(しし)が焼ける
匂いが立ちこめる。紫色の煙が、青い空
へ舞い上る。笑い。さんざめき。少年達
の頬は雪に焼け、青い瞳は南を指す。行
く果はギリシヤ。紺青の地中海、南風の
想いに胸は膨らむ。

美しい火の拡野━━━妖艶な姿をした悪
魔の手をのがれ、輝やく夜の拡野を走っ
たトロイカの群。━━夜には去った。鈴
の音もきこえない。唖の少女の白い頬に
も陽がかげる。少年は机に向い、幻想に
ふける。窓外は田舎道。小鳥も啼かず牛
も啼かず、羊も啼かない。牛車の音すら
きこえない。━━━微風にカーテンがゆ
れる。海から押しよせる潮の香。防風林
のざわめき、枯葉の散乱。唖の少女が笑
ひかける。戸を開き、連れだって砂浜を
ふみしめる。砂丘の向うに愛馬の墓標。
渚に打ち上げられた木椀、難破船のかけ
ら。潮の唄は子守唄。もう■だ。林の中
のふきあげの輝き、まどろむ白兎。より
そう二人の上へ木々は枝を拡げ、空より
落下する花輪の群。

1979.8 「友をうしなう(戦争体験の一齣)」



友をうしなう(戦争体験の一駒)

山入端一博

 子供の頃、名護の町を流れる川へ、よく鰻をとりに連れていってくれたおじさんがいた。釣針に蛙を刺して穴の中へつっこむと鰻がくいつく。それを力一杯ひきずり出して、つかまえる。子供の僕にはそれをつかまえるのが大変であった。何とかつかまえてしまう頃には、体じゅう泥だらけであったが、何という楽しい日々であったか。おじさんはそれから暫くして山口県の方へ仕事で行ってしまったが、僕が中学へ入学した頃、久し振りで帰ってこられた。
 「お前、Pigとは何か知っているか?何!知らない! 豚だよ、豚! カードの表へPigと書き裏へ豚と書きなさい」
 僕に英語の勉強の仕方を教えてくれたのもこのおじさんであった。このおじさんにいわれるとふしぎに、すなおに勉強する気になった。併し、それから間もなく日中戦争がはじまり(1937)中国大陸へ出征されて戦死してしまった。
 若し、生きていてくれたらと、つくづく最近、何ものにもかえがたい貴いものを失ったと感じるようになっている。
 其の後、僕自身も軍隊に入った。外地へはゆかず南九州で軍務に服した。宮崎県の都城の部隊にいた時、丁度沖縄戦が始まろうとしていた時だと思う、部隊も空襲をうけた。爆音が急に大きくなったかと思うと、低く垂れこめた雲の間から、づんぐりしたグラマン戦闘機が突如、姿をあらわし、防空壕へ逃げおくれた僕めがけておそってきた。軒下に身をかくしながら戸外の壕の方へ走った。軒の瓦がパリパリとやられてくずれ落ちてくる。夢中で軒下から壕の方へとび出す瞬間、グラマンの方をちらっと見た。真正面から、機関砲で僕をねらいせまってくる兵士の大きな飛行めがねの顔が怪物のように眼底に焼きついた。しまった!と必死に壕の中へすべりこんだ。
 グラマンにねらわれていると気がついて壕に入りこむまで、ほんの数秒間である。壕へ逃げこむまでの僕の足跡と足跡の間に弾痕があった。ほんの一瞬の時間のずれで僕は死人でいた筈である。今でも、あの時の飛行士の大きなめがねをかけた非人間的な顔が頭にこびりついている。
 大学の同級生にM君がいた。フランス語、ドイツ語を勉強し、ラテン語、イタリア語、ギリシャ語にまで手をひろげていた。大分県の地方新聞に詩の批評文を載せる程、早熟な学生であった。或る日、高村光太郎へ会いに行こうという事になったが、途中でこわくなった。何しろ相手は日本を代表する大詩人である。予定を変更して山之口貘さんの処へ行くことにした。僕が沖縄出身なので行きやすいということだった。貘さんは牛込のアパートにおられた。気楽にお会いになり、近くの喫茶店でコーヒーをのみながら話をうかがった。詩一篇を書くのに何百枚も原稿用紙を使うのだと、作詩の苦労話をされた。帰る時になり貘さんは、体中何かさがしている様子であったが「すまん、金がないなあ」とにやっと笑われた。無一文で漂々と歩きまわるあたり、いかにも貘さんらしいなあと思った。
 戦後、生きながらえて、何をなすべきか悩み、再び大学へ戻った時、M君にあって将来の方針を決めようと思った。彼だけがたよりであった。併し、彼は、僕が入隊して間もなく召集をうけ、南方戦線に行き、ガダルカナルで戦死したときかされた。僕は眼前が真暗になる思いであった。あまり丈夫でなく喘息の持病をもっていた彼が野蛮な殺戮の場で無惨に殺され、彼のもっていたすばらしい知性と豊かな感受性が一瞬にして消し去られたかと思うと、怒りが腹の底からこみあげてきた。



※「M君」は、三浦一衞と思われるが、戦死の地がガダルカナルとある。

2012年9月15日土曜日

1984.8 「馬糞としっぽ」新生美術第3号



馬糞としっぽ

山之端一博

 馬糞はその形といい茶緑がかった色といい、アンコロ餅といった感じの柔らかさ加減といい単純整然として美しい位だ。人間のそれの複雑・怪奇・多種・多様さとはひかくにならない。
 馬が糞をする時は、しっぽを天に向って引き上げ、あのふさふさした長い毛を風になびかせて、軽く四つの足をふんばり、開放され、膨張して、わずかに外部へせり出した肛門部に、五、六個かたまって、ひしめいているアンコロ餅をポロリ、ポロリと落とす。
 その姿は悠然としてすがすがしい。
 併し、いつもこのように悠然とはゆかない。
 戦前、那覇の港に近かった私の家の前の道路は移出する砂糖樽を運搬する馬車でごったがえした。サーターヤーで作られた黒糖は樽に流しこまれ、固められて、馬車に積みこまれた。農村地帯から那覇にくる迄には相当な時間がかかるし、排泄したくなるのも当然である。然し、悠然とおこなう訳にはゆかない。後から馬車がせまってくるからだ。やむを得ず、しっぽを上げると歩きながらポタリ、ポタリとやった。
 一回、五、六十個のアンコロ餅を一日、7,8回以上は排泄するので、その量は相当なものだ。那覇市でも比較的早く舗装された家の前のセメント道路の上にも馬糞がまき散らされた。
 馬糞はパサパサとまではゆかないとしてもあっさりとして粘着力も弱い。馬車の鉄の轍に押しつぶされて、センべーのようにペシャンコになった糞は、亜熱帯のギラギラした太陽に照りつけられるとひとたまりもなかった。栄養分を吸いとられた草の繊維は粉々になり、三重城の沖から吹いてくる潮風にあふられて、屋根の上まで舞い上がった。部屋の中を箒ではいても、すぐ畳や机の上が粉っぽくなった。畳の間や天井裏など箒のとどかないところには粉がたまったにちがいない。蚤の幼虫は動植物性のゴミを好むというから、蚤が多かったのもなる程とうなづける。
 第二次世界大戦の頃までは、日本の陸軍にも軍馬がかなり飼われていた。したがって部隊には馬を世話する為に厩(うまや)当番というものがおかれた。人間にも癖があるように馬にも癖がある。軍隊にも色んな癖の馬がいたが、咬癖の馬は当番を困らせた。馬の歯は人間の前歯のようなものが沢山ならんでいる。私は歯が悪いせいか歯が美しいとは思わない。入歯をみると悲しくなる。馬は草食で肉をくう筈はないのだが、馬は歯をむき出すと気味が悪い、こわい。咬癖の馬は馬相?が悪く目つき鼻つきタテガミの形から身のこなしまで、馬が合わないというか、敬遠したいような雰囲気をもっている。勿論それは人間の勝手で馬のせいではないのだが、このような馬にかぎって相手が敬遠していると思うと益々歯をむき出して咬みついてくるから始末が悪い。しかし、咬癖にもまして、困るのは蹴る癖である。横へ蹴ったり、後へ蹴ったりする、打ちどころが悪いと命とりである。
 厩当番の仕事は色々あったが、その中の一つに肛門を雑巾でふきとるのがあった。馬の肛門を清潔にする為である。馬のまうしろに位置しなければならぬので危険この上もない。うしろから近づくとあぶないので、必ず馬の横っ腹へ近づき、馬にくっついて、馬の様子をうかがいながら、そろそろと尻の方へ近づき、すばやく、しっぽの根っこから十センチ程の処をにぎって上へ持ち上げる。大きな馬だと、丁度、人間の顔のあたりに、しっぽのつけ根があるので、ぐっと力を入れてしっぽを頭の上の方へ押し上げると、馬はじっとしている。どんな暴れ馬でもおとなしく、動かないそうである。
 馬のしっぽの根本は固くて弾力があり、野球の軟球より少し柔らかい感じの筋が通っている。その筋は尾骨から背骨、肩甲骨のつけ根へと美しい波状を描いて続き、更に首の骨から頭の骨へ達する。
 しっぽは馬の骨組を形成する急所の一つにちがいない。しっぽを持ち上げられ、腰が浮いたのでは何の業もしかける訳にはゆかないのであろう。

新生美術 第3号 1984年8月

1990「月刊美術」9月号掲載 南の星座、海、森の風


南の星座、海、森の風

 那覇の港の近く、珊瑚礁の埋立地で、潮の香にさらされ、潮の揺蕩の中で私は育った。潮のリズムへの共感は生まれつきのものである。海へもぐり潮の波動に身をゆだねて眼を開くと、鯛の群が私をとりまいて泳いでいた。私を不思議そうにみつめているギョロギョロした鯛の目付が忘れられない。
 父母の出身地は、山原といわれ、砂浜に面し、山野にかこまれた農村であった。私はよくそこへ遊びにいった。茅ぶきの家は夫々、福木(常緑高木の熱帯アジアの防風林)にとりかこまれて、全体として、集落というよりむしろ、福木の森という感じであった。常食であった芋を掘りにいったり、川へ蝦や鰻をとりに入ったり、森の中で目白を突きに行ったりして、一日中を過ごした。電灯が十分普及していなかった当時は、日暮れと共に星座がが頭上にあらわれた。明るい星空の下を大蝙蝠が黒い羽をひろげてとび廻った。
 大学を卒業して、奈良で仕事についたが、夏の休暇には、三重や和歌山の海へゆき、大台ケ原の原始林の中をさまよった。
 二十数年ぶりに帰ってきた沖縄は、戦争による荒廃から、見事に立ち直り、復興しつつあった。しかし、最近、開発の名のもとで、森や海岸が破壊され、島の人々の生活にもひずみが目立ってきた。そのような状況に対する抵抗や、島の自然や生活を守る活動もたかまりつつある。
 戦争へゆく前、ちょうど三浦とつきあっていた頃、私は森の中へ入るのが夢であった。この夢は戦争と戦後の激動の中で実現出来なかった。老境へ向いつつある今になって、水道も電気もない森へ入り、森の風に耳をかたむけ、星のまたたきにつつまれて生活したいと、準備しつつある。山小屋暮らしである。
 リズムのよい詩や、音楽の旋律やハーモニーが、人々をつつみこんで感動に導くように、画面が無限の拡がりをもち、呼吸しているような絵、見る者をゆっくりとつつみこんでしまうような絵を私は描きたいと思っている。「星座」や「海」や「森の風」はこのような絵に適しているようである。
 三浦の詩編「うみのまど」には、果てしなく、せつない海のリズムがある。「一本道」「徑」などには、森の風に吹かれて、樹や草や川のせせらぎに共感して、旅する漂泊のリズムがある。「流れ星」「征旅」には無限に拡がるスケールの大きいロマンがある。それは星座のまたたきにつながる。
 三浦は南海の潮に身をひたし、ジャングルの奥で森の匂いに感応したにちがいない。
 私は三浦へのレクイエムにふさわしいものとして、「南の星座」「海」「森の風」をモチーフに取り上げた。

1990年 「月刊美術」9月号掲載  銀座「フジヰ画廊」個展関連

1990.8.30 [南の星座] 山之端一博画集 詩人・三浦一衞に捧げる鎮魂の曲



[南の星座] 山之端一博画集 詩人・三浦一衞に捧げる鎮魂の曲 フジヰ画廊





あとがきより

森の風よ やわらかに吹け
南の星座よ 永遠に瞬け

 詩人・三浦一衞は、1945年(昭和20年)5月16日、フィリピン・マニラ東方の山中で戦死した。戦後しばらくして私は、彼の遺稿詩集を出版したいと思いながら果たせずにいた。3年前、藤井一雄さんと池田孝二さんも出版を熱望していることがわかった。妹・玉那覇直や大分の詩人・首藤三郎さん、三浦の義兄・川田彦馬さんとも連絡がとられ、三浦一衞・遺稿詩集「流れ星」が遂に陽の目をみ、フジヰ画廊から発行された。死後実に半世紀ちかくが経っている。三浦を中心にして結ばれている目に見えない不思議な絆を感じない訳にはいかなかった。
 今年の4月5日、友人、知人、縁故のある方々が、三浦の菩提寺、島根県・津和野の光明寺に集い、霊前に三浦一衞・遺稿詩集「流れ星」を捧げ、ねんごろに法要がとりおこなわれた。

 三浦との交友は、1942年6月から、私が第一次学徒動員で沖縄へ帰った、1943年の9月まで、わずか1年余であり、毎日のように彼と生活を共にしたのは、下宿が近くにあった最初の数ヶ月にすぎない。しかし、「…三浦の朗読をききながら、詩や戯曲への理解を深めた。それは私の感性を決定的に鍛練した。私は生きていく上で、極めて大切なものを与えられたと思っている。…」と、遺稿詩集「流れ星」の中の「追想」で書いたように、私にとって三浦はかけがえのない友となった。
 私は絵が好きだったので、大学の美術クラブでデッサンをしたり、戸山ヶ原や江戸川公園でスケッチをしたり、友人の肖像画を描いたりした。麹町平河町にあった三井コレクションで、初めてルオーの原画(女の半身像)をみて、その分厚い、圧倒的なマチエールからせまってくる、激しい生命感に、大きなショックを受けたのもその頃であった。
 首藤三郎さんは、遺稿詩集「流れ星」の、最後の詩編「征旅」の「作品解題」の中で、「…応召の前夜、燈火管制下の部屋で、彼が私に語ったのは、戦争やこれからの運命などについてではなく、ランボオの詩についてであった。」と書かれている。ランボオへの傾倒ぶりと、詩に対する探求心のすざまじさがうかがわれる。彼にとっては「詩」が「生命」そのものであった。私が絵を持続している一つの源は、このような彼の、詩に対するひたむきな姿勢の影響であろうと思われる。
 遺稿詩集を出したいと思ったのは、三浦の詩を評価したからではなかった。彼は古今東西の詩を紹介し、朗読してくれたが、自分の詩については余り語らなかった。当時朗読してくれた彼の詩は、「風景画」「光芒」「一本道」など、極く限られたものであった。しかし、きっとすばらしい詩を残しているにちがいないと、確信していたからである。遺稿詩集「流れ星」ではじめて「まど」以下「征旅」に至る詩篇に接し、やはり予想は的中していた。
 私は彼の詩に触発されて、「詩に形象化」に新たな制作意欲をかきたてられた。しかしこれは中々大変な仕事である。私はまた大きな研究課題を背負わされたようだ。画集の作品の一部は「詩の形象化」の試みである。
 川田彦馬さんは、妹への手紙で次のように書かれている。「…輸送船が魚雷をうけて沈没し、この時、福岡で編成された部隊の殆どが戦死して、弟は僅か十何人の生存者としてフィリピンに上陸したそうです。…戦友が見たとき、海水につかったので…父から貰った腕時計は、これも戦前のものですから錆びてこわれていたそうです。…戦友は喘息の発作はなかったようだと言っていました。からっとした南の国の風土と、前線での緊張感がきっと幸いしたのだと思います。ここまでは弟の前線での生活は順調だったと思うのですが…」
 三浦は、「見者」として南海の苦い塩水を味わい、強烈な紫外線に肌を焼き、砲弾の絶えた静かな時間には、「森の風」に耳をすまして、草の匂いをかぎ、「南の星座」に見入って、ランボオを想い、詩を想って、束の間の生命の時間を、雄々しく生き抜いたにちがいない。鎮魂の意味もふくめて、「南の星座」や「森の風」を捧げる次第である。
 今回、藤井一雄さんが、「山之端一博絵画展」を発案・主催して下さり、池田孝二さんが出品作を中心に画集を編集して下さり、杉浦康平さん、谷村彰彦さんが造本・デザインをして下さった。心から御礼申しあげる。
 絵画展中の9月3日は奇しくも旧盆である。三浦はフジヰ画廊にも訪れるであろう。三浦が愛唱していた「ルバイヤート」の一歌がきこえてくるようだ。

愛しい友よ、いつかまた相会うことがあってくれ、
酌み交わす酒はおれを偲んでくれ。
おれのいた座にもし盃がめぐって来たら、
地に傾けてその酒をおれに注いでくれ
  オマル・ハイヤーム 小川亮作訳・岩波文庫より


1990年8月30日


ルバイヤート  オマル・ハイヤーム→http://www.aozora.gr.jp/cards/000288/files/1760_23850.html


2012年8月31日金曜日

1981  北部にも新しい波 やんばる展



やんばる展 1981年 琉球新報紙上ギャラリー


北部にも新しい波

 子供達がわいわい言いながら絵をみている。赤ちゃんをおぶったお母さんが「静かにしなさい」とたしなめる。
 「うぬいーや、ちむえーわからんさあ、」「うぬちゅーぬいー、くじゅとぅ、ゆかい、かわいそおわんな」お年寄りが絵をみて、気軽に話している。
 展覧会となると、一部の愛好者や関係者が訪れるもので、一般市民には縁がないように思われがちであるが、やっと、市民の生活に溶けこみはじめてきたようだ。
 北部会館、国頭教育事務所の二階ホールの他に、今年は、旧市役所の一階が展示場として新たに加えられたので、書道、写真、絵画の各分野の展示が、去年の二倍から三倍の規模に拡大した。
 私も参加した絵の分野でいうと、第一回では十六点、数名の展示者にすぎなかったのが、今回は八十五点、六十四名に及び、二五〇号に相当する大作をはじめ、100号以上が13点、50号以上となると32点に達した。100メートルをこえる壁面が、見ごたえのある展示となった。
 出品者も、有名無名、名護市をはじめとして、北は国頭村から南は金武町の各市町村に及び、伊江島からの出品も多くなった。作品は抽象・シュル・具象とバラエティに富む。応募作品は、みな展示する、いわゆる、アンデパンダン方式なので、質的な差はまぬがれないが、全体的に、参加してよりよい作品にしてゆこうという気迫に溢れ、自由なすがすがしい気にみちていた。
 来場者も、子供から老人まで、中には外人や中南部の方もみられ、なかなかの華やかさであった。芳名簿に書名した方だけでも三会場で6,500名もあり、今までになく盛会であった。
 新しい文化の波が、高くわき上がるというには、まだまだ程遠いものがあるとはいえ、その波がおこりつつあるといえるのではないだろうか。
 創作品を展示する場があれば、かなりの展覧会が可能である。その点、今回思いきって会場を拡大したことは意義があった。
 古我知や江洲をはじめ、北部各地で陶芸活動は旺盛で着実に力をつけている。芭蕉布を中心とする染織、芭蕉、あだん葉、竹、木を材料とする民芸は、やんばるならではのすばらしいものがある。民芸は地域とのかかわりが深いだけに、これから量的にどう拡げるかが課題であろう。
 「北部混声合唱団」演劇団「山原船」「民話の会」「山原の自然を守る会」をはじめ、多くの活動が存在している。日常的に学習し、練習し、情報を交換する場、そしてその成果を発表し、広く一般市民と交流する「カルチャアセンター」のようなものがあるならば、人々の悲しみやよろこびを秘めた、力強い、新しい文化の波が北部にもたかまり、村づくりや町づくりに大きな活力を与えるものと確信する。 (社団法人・美術同好会サロン・デ・ボザール評議員)

時期不明 沖永良部へ渡る舟(直筆原稿より)


沖永良部へ渡る舟 山入端一博(名護博物館協議委員)

 輿論(ユンヌ)や沖永良部は、やんばる圏といってもよいのだから、もっとやんばるとの間に船の往き来があってもよさそうなものだがと思いながら、まあ久し振で那覇の港へゆくのもよいだろうと、午前5時半名護始発のバスに乗り、7時半集合にぎりぎり間にあった。
 三重城周辺は全く昔の面影を失なっているが港の一角に、かつて山原船が停泊した掘割の一部が残っている。波の上の塩水プールがまだなかった昭和の始め頃は、県下の中学生、高等女学生の競泳大会はこの掘割で、テンマセンから飛びこんで、行われたものである。附近にはトントンブニグワーの造船所もあった。 思ったより豪華なクィーン・コーラル号に乗りこみ、北上する。飛行機から眼下に見る沖縄島は「大きい」という感じはないが、船からみるとなかなか「大きい」。宮城真治著「沖縄地名考」によると、沖縄島周辺の島には沖縄島のことをウクナー、ウキナー、ウチナーなどと呼んでいるところが多いとのことで、ウクは大きい、ナーは村、島、国などの意味があり、つまりオキナワは「大きな島」ということになっている。成程、次から次へと現われる島々に比べると「大きい島」だ。昔の小さな舟からみると更にその感を深くしたにちがいない。
 大正末期に沖永良部へ行かれた伊波普猷さんは、帰りに乗られた平安座船のことを次のように書かれている。「・・・・長さ4間、巾半間の独木船(サバニ)を四叟組み合わせ、舟と舟との間には、山原竹(ヤンバルダーキー)を束ねたものをはさんで、その弾力で相互のきしみあうのを防ぎ、ふなべりには一尺五寸位の波よけをつけ、帆柱が二本立ててありますが、風の都合のわるいときの設備として、艫には大きな櫓が二つほど用意してあります。杉舟でしかも吃水が浅いので、浅瀬でも、大洋でも、滑るように走りますが、どんなしけにあっても沈没する気づかいはさらになく、よし全部浸水することがあっても、筏のようにじつと浮かんでいるとのことです。・・・」(大正15年刊行「琉球古今記」)
 今から200年程前に私の先祖の一人は名護間切、大兼久村からクンジャン、ユンヌを経由して沖永良部へ渡り、ノロと一緒になり、その子孫が知名町で繁栄している。彼の乗った舟はどんなものであったのだろうか、近づいてくる沖永良部島を眺めながらしばし感慨にふけった。(原稿ママ)

1986.8 水彩画集 シリーズ馬1984 あとがき



山之端一博水彩画集  シリーズ馬1984

印刷発行日 1986年10月10日
発行所 アトリエ風樹庵・山入端一博
印刷・製本 ダイコロ株式会社 大阪市北区天満2丁目1番1号

あとがき  馬之介のことなど

 「もうカジマヤー(97才の生年祝)に近い老馬ですが…」と、沖縄の在来家畜の保存に情熱をもやしている、名護博物館長の島袋正敏氏が、ホーチマターの小さな果樹園へ宮古馬を連れて来たのが1983年の夏だった。
 肩甲骨の上の首のつけ根あたりが盛り上がった、この老馬はやせてはいるが骨太で筋肉がしまり、主人の為によく働いた馬であることを示していた。内気そうに、うつむき加減に初対面の私をみつめる不安そうな眼、しかし、どこか図太く、いたずらっぽさもチラリとみせる眼、―「ウーン、これはコージャーウマグワーだなあ」と思わず感じた。
 コージャーウマグワーというと私にはうすよごれた見ばえのしない、しかし、がっしりした背の低い馬という印象がある。競馬場で活躍しているサラブレッドのようなスマートな美しさや、日本の陸軍砲兵隊にも奉仕した、フランス原産のペルシュロンのような威風堂々たるたくましさとはまったく縁がないが、ウチナーウマグワーという何とも言えぬ親近感があった。
 老馬は子供達を背中にのせて、よく遊んでやり、「馬之介」と名づけられて、たちまち子供達の人気の的となった。馬之介は眉のところが白く、左右に乱れたたてがみにも白髪がまじっていたが、それは年のせいではなく生まれつきだったにちがいない。老境に入り、白髪の増えつつある私は、同僚相憐れむの気持ちから、ひそかに彼を、「眉白―マユジラー」と呼んでいた。
 水彩画シリーズ「馬」のモデルは必ずしも馬之介ではないが、彼の出現が、創作意欲をかきたてたのはたしかである。たとえコージャーウマグワーでも馬は馬である。馬のもっている独特の神秘的・ローマン的な雰囲気がどこかにあった。手綱を離れた馬之介が背筋を充分のばし、たてがみを波うたせて、優雅な中距離ランナーのように、軽やかに、大地を蹴って走り廻ったこともあった。「やはり馬だなあ」と思わず眼をみはったものである。
 フランスとスペインの国境にちかい、ラスコーの洞窟に描きこまれた馬の絵によって、人と馬とのつき合いが数万年前の遠い昔にさかのぼることがわかる。農耕・運搬・軍事と馬は最近まで活躍していた。馬が急に姿を消しはじめたのは30年くらい前からにすぎない。
 戦前、名護の私の家の馬屋には、灰色の気の荒い大きな馬が飼われていたし、那覇の港へは砂糖樽をつんだ荷馬車が跡を絶たなかった。戦時中、私は本土の歩兵隊の中の大隊砲部隊に属していた。陸軍で最も小さな大砲であったが、長い行軍の時は馬が曳いたし、直径80ミリもある重い弾丸を運ぶのも馬であった。
 復員しても、すぐ沖縄に帰れず、仲間と共に鹿児島の塩田でしばらく塩作りをやったが、その当時、軍馬を払い下げてもらい非常に助かった。
 黄金色のたてがみと、ふさふさしたしっぽをもった赤茶色の大きな馬が、真夜中に馬小屋から逃げ出して附近の原野をさまよい歩き、運悪く国鉄にはねられて死んでしまった。その馬を仲間と共に砂浜に埋葬した時の暗い、冬の、灰色の悲しい空がいまだに忘れられない。
 自動車やトラックターの普及によって、馬は無用となり捨てられた。除草剤によって馬の生命であった雑草も除かれている。そして土と空気が汚されている。馬や雑草や多くの生命と共生できる世界を夢みるのは妄想であろうか。
 30数年ぶりで馬とつき合うことになり、様々なおもいをこめて馬の水彩画を試みてみた。いまだに画学生をもって任じている私は透明・不透明と違った絵の具を使い、ちがった描き方で色々と表現してみた。1年程で作品も大分たまったので、1984年の8月、名護博物館ギャラリーで「シリーズ・馬・水彩画展」を開催した。
 展覧会を見終わった人から「作品を一つにまとめたら面白いのではないか」という意見がしばしば出た。会場を一巡すると、一枚一枚の作品ではだせない、絵巻物のような変化があり、面白い。記録として、一つにまとめておくべきだという気持ちが働いた。
 カメラマンとしてもすばらしい博物館長が作品一つ一つをきちんとカメラに納めるという、うるさい仕事もしてくださった。
 一枚一枚の絵は未熟だし、まとめるとなると「画集」ということになるし、「画集」では大げさで気が重かった。体調もおもわしくなく、まとめるのが延び延びになっていた。
 たまたま、今年の春、私が奈良県の桜井高等学校の教師をしていた頃の生徒の一人であった、ダイコロ株式会社の嶋岡和雄氏が画集の話を聞き、是非、出版するようにとすすめてくれた。2年たった今でも、なお出版したい気持があるのだから出版にふみきるべきだと決心した。
 丁度、その頃、肺炎を患い、ゼーゼーと息をし、時々大きな咳をするようになっていた馬之介が斃れて立てなくなり、4月30日遂にこの世を去った。死んだ馬之介の黄ばんだ歯並の中にがっちりと噛みこまれた新鮮な緑色の雑草が印象深い。「そう簡単には死ぬなよ。」「最後まで生き抜かねば駄目だぞ。」と語りかけているようであった。
 この画集は2年前のささやかな「馬シリーズ」の記録である。一人でも多くの共感する方があれば、馬之介もよろこぶにちがいない。

 1986年8月 山之端一博 アトリエ風樹庵にて

2012年8月27日月曜日

1987.7 「風が吹くとき」哀れに美しい反核映画



風が吹くとき

哀れに美しい反核映画

 この映画の魅力は、退職した老夫婦のささやかな愛情に満ちた郊外生活を横糸とし、原爆投下という極めて重い事件を縦糸として織りなす異常なドラマ性にある。
 国際的ベストセラーを八作も世に送っている原作者・レイモンド・ブリッグズが描く老夫婦の姿は子供のようにあどけない。第二次世界大戦をくぐりぬけ、仕事をつとめあげ、子供を育ててきた二人は国民として誇りをもっている。ジムは今でも国の指導者を信頼し、国民としての義務を果たすべきと考え、妻をこの上もなく敬愛する人のよい男性で、核戦争や政治などについても妻に講義したりする。妻ヒルダは食事・洗濯・掃除にうちこみ、たよりない夫をあたたかくつつみこむ、愛情豊かな女性である。このほほえましい夫婦の愛情は原爆投下という異常な状況でも変わらず、放射能に侵されて共に死んでゆく。
 森繁久彌と加藤治子は、風刺とユーモアに満ちた、淡々たるイギリス人らしい会話を日本語で見事に表現し、老夫婦の性格を余すところなく浮き彫りにしている。
 原爆投下という限りなく重く暗いテーマを、平凡であるが故に、かえって普遍性をもつ愛情によって、哀しく、そして美しく、やるせなく追求している。その哀しさ、美しさは、原爆投下前のヒルダが蝶になって舞い、投下後はヒルダが消えてカラスになるという、空に舞うタンポポのイメージなどによって増幅される。
 淡々とした動きとはいえ、色彩感の変化に富む、老夫婦に対して、その背景となる部屋の中のたたずまいは、実際にセットされたものや、それにもとづくミニチュアを作って写真を撮り、ほとんどモノクロームで仕上げたもので、アニメでありながらリアルな感じを出し、作品を古典的な重厚なものにしている。
 核ミサイルを積んで疾走する軍のトラック・戦争の予告のニュースの後にあらわれる巨大なミサイル・飛行中の爆撃機・海中を進む原子力潜水艦ーこのような映像が淡々としてすすむ老夫婦の動きの、要所要所にあらわれる。そして、遂に敵がミサイルを発射したニュースーその後の原子爆弾の爆発。このたたみかけてくる不気味な映像や音響は、すぐれたサスペンス映画にもまさるともおとらない迫真的な効果をあげ、観客は息をのむ。数々の国際的賞に輝くジミー・T・ムラカミ監督の才能のすばらしさだろう。
 明るい青空で風に流される白い雲を眺めるジムの最初の場面と、夫婦が黒いジャガイモ袋にはいり、瀕死のイモムシのようにもがいている最後の場面の対比・爆風の暴れ狂う中で破砕される夫婦の結婚写真・体の弱ったヒルダがトイレのネズミを見て悲鳴をあげる場面など何とも哀しい場面も多い。
 主題歌はデビッド・ボウイが担当しており、若ものをひきつけるにちがいない。
 この映画は制作中に生れた子供達にささげられている。核にしがみつく指導者に警告を発し、核によって平和がたもたれるという「迷信」を打破し、「核廃絶」の国際的な草の根運動によって、子供の未来は保障されるという願望からであろう。
 それにしても、これは大人のアニメ映画である。子供に見せるときは先生や父兄が子供と一緒に話し合う機会を必ずもつべきであろう。
 映画を見終わって思わず「うーん」としばらく重い感動にひたった。巨大な核戦争の課題にどう対処すべきかーそれは個々人の生き方の課題でもあろう。


1987年7月?


風が吹くとき→http://ja.wikipedia.org/wiki/風が吹くとき

1992.6.19 沖縄タイムス 唐獅子「フジタのおしえ」



フジタのおしえ

「藤田嗣治先生を囲む学習会」が、波上・護国寺の離れで開かれたのは、1938年の夏。県立二中の美術担当、比嘉景常先生の立案である。私は三年生に進級したばかりであったが、オカッパとめがねの、例のフジタの顔と共に、次のようなお話をうかがったことを覚えている。
 「絵かきは模倣してはいけない。自然と自分の間で、新しい作品を創造しなければならない。ひたすら『自分の絵』を追求すべきだ。私はただ絵を描き続けた。或る日、パリーの古い城壁で、いつものように描いていると、今まで見たことのない、『自分の全く新しい絵』が、突然、画面に定着した。私は『これだー』と思わず大声で叫び、悦びのあまり、野原の上を転げ廻った。」
 フジタは、1913年6月、パリーに着いた翌日ピカソに会い、アンリ・ルソーの絵を見せられ、暮にはモディリアーニ、スーティンとモンパルナスで生活を共にしている。第一次世界大戦中、貧乏とたたかい、皆「自分の絵」を追いつづけた。モディリアーニは1920年、困窮の中で世を去るが、フジタは同じ年、陶器のような肌合いの乳白色の画面に、面相筆で、細密画風に描いた「裸婦」が評判となり、戦後のパリー画壇を代表する画家の一人として、黄金時代を築いていった。
 私が再び、フジタの話を聞いたのは、1942年4月、大学の入学式の時で、オカッパは軍人風のイガグリ頭に変わっていた。
 「従軍画家として『よい戦争画』を描くには、決死の覚悟で、戦地に赴き、戦争の現実をよく観て、よく描く事である…」
 戦後、戦争協力者として批判されたフジタは1949年アメリカ経由で、パリーに向かい、1968年レオナール・フジタとして死んだ。
 フジタの「アッツ玉砕」や「サイパン島の同胞臣節を完うす」の図版をみると、果たして戦意昂揚に役立つものかとの疑問がおこる。

沖縄タイムス 唐獅子 1992年6月19日

1992.6.5 沖縄タイムス 唐獅子「琉球海溝へもぐれ」



琉球海溝へもぐれ

 今から15年前の1977年春、スイスへ旅行した。街にも村にも、花々が咲き乱れて実に鮮やかだ。ジュネーブ大学構内の、大ぶりの白木蓮が真っ盛りで、そのすがすがしい白い色が、今でも瞼に焼きついている。
 スイスは山国で、氷河で削られた川は谷が深い。したがって、支流から本流へ注ぐところは、落差が大きく、多くは自然のダムのような滝になっている。それを利用した発電が発達し、工場や鉄道の大部分を賄っている。石油や石炭を使わないので、空気が汚れず、清澄である。「どこへ行っても、風景が絵の様に美しい」といわれるのも、頷ける。
 スイスは地球温暖化防止に貢献するために、化石燃料を使わないのではない。地下資源の石炭や石油がないからである。しかし、結果的には温暖化防止に貢献していると言える。
 赤土に象徴される、沖縄の自然環境破壊の原因のひとつは、沖縄の生態系に合わない、ヤマト風の技術による開発にある。
 海洋温度差発電の研究者、佐賀大学教授・上原春男さんによると、発電に使った後の深海の水は栄養分が多く、魚・貝・藻の養殖に適する。各家庭の冷房。土地を冷やした野菜づくり。地球環境に貢献するために、炭酸ガスを入れて海にもどすことも出来るとのことである。
 亜熱帯の太陽にめぐまれ、琉球海溝という深海をひかえている、沖縄のエネルギー源として、海洋温度差発電の技術は、大いに追求されるべきではないだろうか。
 地球の環境悪化を防止するには、地球の生態系にマッチした、新たな開発技術や生活文化の創造が不可欠であるが、それは地域から始められねばならない。
 沖縄の若い方々が、琉球海溝を研究し、沖縄の自然や生態系に適合した、エネルギーの開発技術を創り出してほしいものだ。「若人よ、琉球海溝へ潜れ」

沖縄タイムス 唐獅子 1992年6月5日

1992.5.22 沖縄タイムス 唐獅子「赤い『狂女』」



赤い「狂女」

 「フランス近代絵画家選」という画集で、カイム・スーチン(1893~1943)の「狂女」に出会ったのは1942年の夏。十五年戦争も末期に近く、ミッドウェー沖の海戦で手痛い打撃を受けた日本は、守勢に追いこまれていた。大学へ入学したばかりだというのに、何時、戦争にいくことになるかもしれず、行けばもちろん生命の保障はない。何をやっても無駄ではないかという、不安感や焦燥感が常につきまとった。
 たっぷりとしぼり出された絵の具を、荒々しく、かきまぜひきのばす、激しい筆触(タッチ)。その激しい動き(ムーブマン)からくる変形(デフォルマション)。煌めく強烈な色彩。それらがスーチンの絵の特色である。「狂女」は首をちぢめ、肩をすぼめ、自分を狂わせた体内の激情を抱きかかえ、抑えこむかのように両腕を組み、しゃがみこんでいる。異様に大きい、グローブのような手。ふり乱した髪。狂女がまとう、燃えたつようなガウンの赤。それらが互いに照応して、内面の不安感を見事に表現している。真正面に向き、悲しげに見開かれた大きい目。それは目に見えない、自分を狂わせているものの本体を見据える目。帝政ロシアのリトアニアで生れたユダヤ人スーチンは、この絵で、抑圧・差別・不条理を激越に告発する。
 「狂女」には、戦争という巨大な、暗い力におしひしがれた、絶望的な人々の心情を包みこむ、或る種の人間的やさしさがあった。「狂女」は私にとって、忘れ得ぬ絵の一つとなった。
 数年前「狂女」の原画を見たいと、大原美術館を訪ねたが果たせなかった。去年、浦添美術館で開かれた「ヨーロッパ近代絵画の流れ」の中で、はからずも「狂女」の原画と対面し、五十年ぶりに旧友に出会った感動を覚えた。荒々しいタッチにもかかわらず、赤(ヴァーミリオン)が、透明感に溢れ、深みがあって、輝くばかりに美しい。あらためて、スーチンのすごさをおもいしらされた。

沖縄タイムス 唐獅子 1992年5月22日




1992.5.8 沖縄タイムス 唐獅子「不思議な猪」



不思議な猪


 空梅雨で、ずっと日照りが続いた去年、八月初めの夜明け、果樹園へ行ってみる。ハナウキンの茂みの中で、「グーグッグッ、グーグー」。低くやさしい、けものの声。私の跫音を聴き、「私はここだ。ハナウキンの花がうまいよ」と、自分の所在をあきらかにし、馴れ馴れしい様子である。はて?豚かな?
 五,六メートルまで近づくと、体長五十センチぐらいの猪がとび出し、さほど離れていないベンシルーの樹の下で、鼻を土に突っこみ「グッグ、グー…ここのミミズはうまいなあ」と、言わんばかりである。タマゲタ。逃げようとしない。不思議な猪だ。
 この小さな果樹園の土づくりは、数年前、サシミヤーの魚のハラワタを、息子がせっせと運んで、埋めこむことから始まった。除草剤、殺虫剤、無機肥料は一切使わない。お蔭で、土の中に微生物が増え、ミミズが縦横に動き、酸素が豊富らしい。ホカホカして、その上を歩くと気持ちがよい。土が生きている。猪も気持ちよさそうに、ほっつき掘る。
 東の尾根から、朝の太陽が顔を出した。帰り支度に取り掛かる。いつの間にか、猪の姿が見えなくなっている。夕方、果樹園に来て、暫くたつと、茂みのなかから「グッグッ、グー」と、猪の声。そんな日が数日続く。どうやら、果樹園を自分のテリトリーにし、朝晩訪ねて来るようだ。日照りが続き、食料が不足したせいか?もっともここらあたりは、もともと、猪の縄張りだった筈である。
 八月も末になり、ベンシルーの実が、大きくふくらんだ。例年よりも甘くなるかも知れないと、期待した矢先、地面に垂れ下がった実を食い始めた。これはたまらんと、小石をぶつける。尻に当たり、ちょっと跳ねたが、逃げる気配がない。困ったものだ。
 生け捕りにしようと、罠をしかけた。ところが、翌日から、プツリと姿を見せなくなった。ホッとしたものの、さてはヒトの魂胆見破られたかと、淋しく、侘しかった。

沖縄タイムス 唐獅子 1992年5月8日

1992.4.24 沖縄タイムス 唐獅子「森と台風」



森と台風

 台風が過ぎて数日後、名護岳近くの森に入る。渓流の水嵩は、思ったより増えていない。森が水を蓄えているのだろう。強烈な台風の雨粒は、森を覆う木の葉に受け止められ、ぽたぽた落ちる雨水となって、落葉の積もった土に吸いこまれ、徐々に地層に浸透し、少しずつ谷間に集まり、渓流となる。
 うす暗かった森の中は、かなり明るくなっている。強風と雨でそぎ落とされた、夥しい木の葉や、折れた枝や幹は、やがて腐葉土になるだろう。蔭になっていた樹が、陽の目を見、ゆらめくような精気を発散している。活発な光合成によって、盛んに酸素を放出しているにちがいない。木霊・木の精・キジムナーの息吹が強い。病んだ心身が癒されるようだ。森は失った樹に代わって、より若々しい樹を育てる。
 一定の広さの原始林は、枯れた木の量と、成長する木の量が同じで、全体としてまとまった森を維持するという。沖縄の原始林も、何千年という永い間、毎年台風にあいながら、森を維持し、ヒトをふくめ、多様な生物を養ってきた。渓流の集まった川は、エビ・カニ・ウナギ・アユなどを成育し、栄養分を川口に運び、プランクトン・小魚・貝などを育て、海の生物を豊富にした。
 農業の為の基盤整備や、ゴルフ場に森はつぶされ、生命のリズムを伝えて、絶えることのなかった川の流れは、ダムによって断ち切られた。
 九州各地で起こった杉山の土砂くずれは、森の木を伐り倒して植えられた杉苗の根が、山の土を保持出来るようになる前に、しっかり土を確保していた森の樹の根が腐ってひき起こされた。目先の利益の為の造林で、森をつぶした報復である。
 台風や洪水による自然災害も、もとを辿れば、ヒトによる人工災害の場合が多い。
 森は訴える。「私達は、太陽の惑星・地球に育つ同胞。ヒトは森と共生せよ」

沖縄タイムス 唐獅子 1992年4月24日

1992.4.10 沖縄タイムス 唐獅子「二日酔の敗戦日」



二日酔の敗戦日

 私の属する部隊は、米軍の上陸に備え、都城から薩摩半島の山の中へ移動。新兵は、棒の先へ着けた地雷を、戦車の下の隙間へ突っこみ、自分の肉体もろとも戦車を爆破する「対戦車肉迫攻撃」の訓練に明け暮れていた。隼人町を除き、鹿児島県の全市町が焼失。B29の大編隊が、一日何回も、上空を北へ向う。鹿児島市の女は髪を切り、男に変装して、山へ逃げたという噂。広島市にピカドンと、訳のわからぬ爆弾投下の風評。大本営の、戦意高揚のラジオ放送にもかかわらず、隊内には、厭戦気分が拡がりつつあった。
 憲兵にみつかったら、銃殺のおそれがあるのに、逃亡兵が増大。「逃亡兵捜索」の命令が、私とK伍長に伝えられたのは、八月十三日の夕刻であった。私は「おかしい」と想った。一体どのように逃亡兵を捜せというのか。私自身、できれば逃亡して、沖縄の最後を見とどけたいと考えたぐらいだのに。
 伍長が笑いながら言った。
「軍曹殿、あなたはオキナワでしょう。休暇があったのに帰れなかった。せめて私と一緒に、遊んでこいということですよ」
 中国大陸で、戦争の悲惨さを嫌というほど味わった五十前後の中隊長は、人情味あふれ、私とはうまがあった。なるほど、彼の計らいかと納得した。
 伍長の家は、宮崎県飫肥郡の山間の造り酒屋。国鉄、バスと乗り継いで、やっと十四日夕方到着。大酒くらい意識不明。翌朝、裏の渓流へ降りる。前を行く伍長と婚約者の手を繋いだ姿が、二日酔の目に映る。「この野郎」と思わず呟く。冷たい流れが素足に心地よい。まわりは、深い森の樹や草の精気に満ち、せせらぎが、生命の歌を静かに奏でている。戦争が夢のようだー限りない静寂の豊かさー。突然伍長が叫んだ。「おかしいぞ!。B29の爆音が全く聞こえない」。
 その日を肺尖の日と確認したのは、原隊に復帰し、しばらく経ってからである。

沖縄タイムス 唐獅子 1992年4月10日

2012年8月26日日曜日

1992.3.27 沖縄タイムス唐獅子「カラフトの夏」



カラフトの夏

 北海道からカラフト(今のサハリン)へ渡ったのは一九四三年(昭和十八年)の夏だった。アメリカの潜水艦にねらわれていたので、連絡船はジグザグコースをとり、魚雷を避けて大泊(サルコフ)へ着いた。岬の岩場から、海へ飛び込む少年たちの赤銅色の裸が印象的で、「ああ、北国でも夏は泳げるんだなぁ」と妙に感動したものである。
 国鉄最北端の駅「敷香」へ向かって、汽車はひた走る。窓外は、エゾ松、トド松、時たま白樺と、全く単調な森林の連続。時折、数十キロに及ぶと想われる。黒い焼け野ヶ原がひろがる。落雷による山火事の跡である。無人の広野を貫く道路には、約1キロ毎に、高さ1メートル程の土管が立てられている。「あれは何ですか」と地元の人に聞くと、吸殻入れですよ。空気が乾燥していますから、吸殻を地面に捨てると、ツンドラが燃え出し、山火事になるんです」との返事。なるほど。
 我々の仕事は、北緯五〇度のソ連との国境地帯まで、日本帝国陸軍のために鉄道を延ばすことであった。鉄路の両端に深さ1メートル、幅数メートルの溝を掘り、その土を中央に盛り上げる。スコップによる単調な重労働。「休憩」の命令が出ると、皆、土の上に仰向けにぶっ倒れ、萬年氷(地下五十センチから下の土は固い氷になっている)を抱いて休む。直射日光で焼けた体をひやすためである。下草は鮮やかな花々の色彩でおおわれている。
 一ヶ月の労働を終えて帰る八月の末には、花々は散ってしまい、羽をつけた種子達が、吹雪のように広野を舞っている。北国の夏は一時に生命が燃え上がり、春と夏と秋が一緒に来るようなあわただしさだ。
 今朝、名護のナングスクへ登る。おびただしい楠の枯葉が道路を覆い、楠の黄緑の新芽が、すでに深緑になっている葉ざくらの中にまぶしい。沖縄の春は、秋からいきなり夏へ向かう気配である。

 沖縄タイムス 唐獅子 1992年3月27日



大泊→http://www.k3.dion.ne.jp/~karafuto/oodomari.html

敷香→http://www.k3.dion.ne.jp/~karafuto/sisuka.html


1992.3.13 沖縄タイムス唐獅子「鑑真と阿児奈波島」



鑑真と阿児奈波島

 天平勝宝六年(七五四年)四月、東大寺の大仏の前に戒壇が設けられ、唐から来た僧、鑑真とその弟子によって初の受戒がおこなわれた。この時、聖武天皇はじめ、皇后、皇太子まで四百四十余人が戒を受けたという。
 鑑真の第一回目の日本渡航の試みは七四三年の春、五十五歳の時であったが、海賊にまちがえられて失敗。第二回目は同じ年の冬、僧十六人の外に、画工や彫刻家など、三回目も四回目も失敗。五回目は七四八年に決行されたが、難破して、海南島に漂着。命はとりとめたものの失明した。第六回目は、天平勝宝五年、ヤマトへ帰る遣唐船で、密航というかたちでおこなわれた。
 淡海三船「唐大和上東征伝」(群青類従)によると、蘇州、十一月十六日出発、二十一日、阿児奈波島に到り、十二月六日出帆。二十日、薩摩へ着いている。
 阿児奈波島はオキナワにまちがいないだろうが、一行は約二週間、オキナワのどこへ停泊したのか、ウチナーンチュとの交渉はどんなものだったのか。
 八世紀の中頃というと、貝塚時代後期、漁撈を中心とする採取経済の段階である。ヤマトンチューが、かなりオキナワへ来たはずだが、ヤマトの農耕文化は定着しなかった。
 あの時代のオキナワの礁湖は、魚介類や海藻類が豊富で、あえて稲をつくる必要はなかったのだろうか。口分田を強制的に割りあて、稲を租税としてとりたてる役人を、大和朝廷がオキナワに派遣するには、まだまだ航海術は未熟であり、危険が多すぎた。オキナワをとりまく自然的、歴史的環境が、ヤマトの歴史とのズレをもたらしたものと考えられる。
 中国人をトーヌチュー、日本人をヤマトンチューと、今でもよんでいるところをみると、当時、唐・大和からのインパクトは余程強かったのだろう。

沖縄タイムス 唐獅子 1992年3月13日掲載

1992.2.28 沖縄タイムス唐獅子「名護緋ざくら」



名護緋ざくら

 ナングスクの桜が、全国の「さくら名所100選」にえらばれ「緋ざくら名護」と歯切れのよい呼び方も考えられるが、ちょっと派手すぎる。やはり、ナゴヒできって「ナゴヒ、ザクラ」と呼んだ方が、新しいサクラ誕生のイメージがあってよい。
 吉野の桜の見頃は四月上旬から中旬。黄褐色の山々は、一挙に、山ざくらに覆われ「奥の千本」に至るまで、全山、見渡す限り、薄桃色に輝く。数日たつとまさに花吹雪。いさぎよく散り、豪華絢爛。やがて枝々の新芽がふくらみ、五月晴れの頃には、緑深い「葉ざくら」となる。
 「名護緋ざくら」のさかりは一月下旬から二月上旬。快晴の日もあるが、曇天、小雨の日も多い。気温は摂氏一五度前後。雪の本土にくらべれば、まさに快適。花は下を向いて、ひっそりと、しおらしく咲いてゆく。
「おい!あの、あざやかな緑は何だ?」
 ヤマトゥの友人が、びっくりしたように、指さして聞く。
「あれはヘゴの新芽だ。名護の宝だよ」
 周辺の緑に映えて、濃淡さまざまなピンクが、ナングスクから名護岳一帯にひろがる。ソーミナー(目白)の大群が、ツオーイ、ツオーイと啼きかわし、谷から谷へと、桜の蜜をもとめて移動する。「名護緋ざくら」の満開である。晴天の日は勿論よいが、曇天の下の、落ちついたピンクにも、しみじみとした、得も言われぬ風情があり、中々よい。
 花もちは長く、ぽつりぽつりと散り、新芽は、いつしか、まわりの緑に溶けこんでゆく。私はこの、ゆっくりとしたテンポが好きだ。
 「名護緋ざくら」は名護の桜。名護の環境の中でこそいきる。それにしても、ナングスクのうしろの、鬼の角のような屋根かざり(中央公園の施設)が目立ちすぎる。せめてその両がわに、桜など大木を育てて、緑の環境に調和させる工夫が欲しい。

沖縄タイムス 唐獅子 1992年2月28日

1992.2.14 沖縄タイムス唐獅子「オリオンがきれい」



オリオンがきれい

 一月十日、十時すぎ、玄関を出ようとすると、うしろから息子が声をかけた。
「どこへ行くの?」(オヤジ、大酒くらって、また体調くずすなよ)と、心配してのことだろう。
「うん、久しぶりに星をみてみようかなあ」と、答えて、外へ出た。
 南に向き、天頂を仰ぐと、整然とならんだ三つ星が鮮やかだ。「ああ、きれい」と、おもわず呟く。快晴。じめじめして、曇り日や、小雨の多い沖縄の冬にしては、珍しく澄んだ空だ。梯子で屋上へのぼる。てのひらに、ひんやりと冷たいセメントの上へ、頭を北に、仰向けに寝る。切歯一八度ぐらいだろうか。毛糸のセーターを着こんでいるので、寒いという程ではない。
 三つ星は、狩りのうまい巨人オリオンの、ベルトのあたり。それを四つの星が四角にかこむ。左うえの赤い一等星、ベテルギウスは右肩、その対称点にある、白い一等星、リゲルは左足首。視線を下に移してゆくと、少し東よりに、全天で一番明るいシリウス…。
 無数の星をじっと、見つめていると、星がゆっくり移動する。私の躰も、星の群に吸いこまれるように動いてゆくようだ。大気も、大地も、海も、ありとあらゆる生きものが、闇の中で動いてゆく…。
 地球から太陽まで、一億四千九百六十万キロ、秒速三十万キロの光で、約八分間の距離。銀河系外星雲までは百数十万年かかるという。ヒトは太陽系の一惑星の表面で、薄い大気の膜に包まれて生きている。ヒトは自然のかけらにすぎない。しかし、そのヒトが大気をおかしくしている。生態系にもとづく、ヒトと自然のあらたな関係、新しい価値体系を構築しないと、ヒトはあぶない…。
 西の方に目をやると、上弦の月が、まぶしく浮かんでいる。私にはそれが、誤って殺した、愛するオリオンへ捧げる、月の女神、アルテミスの、大きな銀杯にみえた。

沖縄タイムス 唐獅子 1992年2月14日

1992.1.31 沖縄タイムス 唐獅子「フェーヌ島の衝激」



フェーヌ島の衝激

 一月十九日、日曜日、名護市民会館大ホールに於て、「全島南ヌ島大会」がおこなわれた。私は去年の大会で衝撃をうけたが、今年もまた衝撃をうけた。「フェーヌ島」はすごい。何故すごいのだろうか、自分でもわからない。「フェーヌ島」は私を呪縛する。これは見せる為の所作ではない。共同体の成員の代表が、地の霊を呼びさまし、豊饒を祈り、天の霊に感謝する所作である。しかし、地の霊はなかなか醒めない。だから足で大地を踏みしめ、音の出る棒で強く叩く。
 勿論、神の宿るアシャギーの前の広場で、はだしでおこなわれた筈である。足の裏には大地に通じるあたたかさがある。棒は悪獣・毒蛇を警戒させる錫杖に、にているが、フェーヌ島の棒は、おそらく祭文読みが神に語りかける時に音を出すのと同じ系統のものだろう。仏教のような体系化されたものではなく、原始的な素朴な感じがする。地の霊をさますのには音を出す必要がある。
 演技者は、頭に赤いヒモを垂らして顔をかくす。ヒトの顔ではない。超人的なおもむきがある。奇声を発し狂ったように大地を叩く、奇声もまたヒトの声とはおもえない。地の霊と語る、ヒトと神の仲介者の性格を表現しているのだろう。エネルギーをぶちまけ、地の霊力に感応するかのようである。大地の霊力を感じとった演技者は手を上に上げ「カフー」と静かに、空へ向かって息を吹きかける。あたかも、太陽の光と熱、雨や風をもたらす天の霊に感謝の祈りを捧げているようだ。この動と静のくりかえしで、ヒトは地の霊や天の霊と合一する。
 フェーヌ島を観、聞いてみると、大地や森や岩石や樹や風の精が自分を包みこんでしまい、思わずめがしらが熱くなるような感動をおぼえる。芸能のもっとも大切なものが息づいているようだ。所作がはげしいので、若い男子にしか出来ない。このすごい宝物を若人が是非継承してほしいものである。

沖縄タイムス 唐獅子 1992年1月31日掲載



1992.1.17 沖縄タイムス 唐獅子「ジュゴンの嘆き」



ジュゴンの嘆き

 小学校へ入学したころだから、もう六十年も前のことである。初冬の、晴れた、すがすがしい朝、名護湾の砂浜に、異様な生き物が引き揚げられていた。体は豚のようにずんぐりした紡錘形。後肢はなく、イルカそっくりの尾鰭。前肢は胸鰭になっている。顔には小さな、かわいい眼、併し、耳も鼻もめだたない。ちょうど、象の鼻を根っこから切りとって、その部分をそっくり、大きな口に仕立てたような、何とも奇妙な格好である。私は今でも、その姿を、名護湾の美しい砂浜と共に、ありありと想い浮かべることが出来る。
 この動物はジュゴン(沖縄ではザン、またはザンヌイュウ)と呼ばれ、熱帯・亜熱帯の珊瑚礁の浅い砂地に生える海草を常食としていた。一生海の中でくらすが、鯨のように大洋へ出るとはなく、岸辺の近くに住む哺乳動物であった。ジュゴンは敵の攻撃から身を守る、鋭い牙も、爪も、もっていない。逃げ足ものろく、遠くへ逃げ出すことも出来ない。従って、波にゆらめき、果てしなく拡がる海草の自然牧場の中でのんびり生きていた。このやさしい、無防備の生きものは、その肉のうまさを知ったヒトの攻撃にさらされると、ひとたまりもなかった。今では、国際保護動物に指定され、絶滅に備えて捕獲が禁止されている。沖縄の沿岸でも、お目にかかることは滅多になくなった。
 私の友人によれば、子供の頃パッパー(名護ではお婆さんのこと)は次のように話したそうである。「ー波の荒い、寒い冬の夜更けには、ひがし海岸から山ごしに、聞こえてくる風や波の音にまじり、ザンの悲しい、悲しい、泣き声が、かすかに、かすかにきこえてきたものさあー」。
 ジュゴンは声を出して泣かないとのことである。まして、ひがし海岸から聞こえてくる筈がない。パッパーはヒトによって食いつくされてゆく、ジュゴンの声にならない嘆きの深さを、感じとっていたのであろうか。

沖縄タイムス 唐獅子 1992年1月17日



2012年8月23日木曜日

1978.6.22 琉球新報 落ち穂「少年たちは小鳥の群」



少年たちは小鳥の群

「僕もパリへ行こうか」と、冗談にいうと、「おい、無茶をいうなよ」といかにも困るといわんばかりにあわてて制止した。「ちょっとパリまで行ってくる」と彼がいって、フランスの貨客船・ラオス号に乗りこんだ時、見送りに行った横浜埠頭でのことである。考えてみるともう十年も前のことである。彼は、インド経由パリへ向かったが、遂にそれから一度も日本へ帰っていない。あの頃は、僕もまだ無茶しそうな様子があったのか、彼のあわて方が目に見えるようだ。
 パリのはずれにあるアパルトマンの、彼のアトリエで石油ストーブをたき、サラダとロシアの蟹罐を肴にしてシャンペンを傾ける。久しぶりで会う彼は、顔一杯ヒゲをはやしたくましくなった感じだ。顔の色艶もよい。絵も相当売れているらしい。
「居心地よさそうだなあ」というと、
「日本を忘れて困るよ」という。
 窓から、裏ぶれた感じの、暮れゆくパリの屋根々々を見る。近くに空地でもあるのか、悪童達が何やらペチャクチャしゃべっているらしい。その声が、まるで枝から枝へと、とびうつりながら、さえずりあっている、小鳥の啼き声のようだ。「少年達の声が小鳥のようだ。小鳥のようだよ」と思わずつぶやく。彼は静かに笑っていた。
 その時、どうした訳か、戦前の那覇の港の風景が急に頭にうかんだ。
 出船・入船で賑わう通堂も、夕暮になると、ひっそりかんとして、風に揺れている大きな港のガジュマルまでがいかにも淋しげであった。港から西新町や、本町へ至るあたりには、大きな倉庫が多く、あやしげなくらい静かであった。
 寝ぐらをさがす雀の大群が、広い空を右往左往しはじめる。夕食前のひととき、街の悪童達は誰ともなく空地の隅に集まって、何かしらペチャクチャしゃべり合って時を過ごした。その声が、丁度小鳥の啼き声のようであったことに思い至った。
 港へサーター車を曳いてゆく馬が、よく糞をたれた。それが強烈な日光で乾燥し、黄色っぽい塵となって街にたちこめた。その匂いも含めた、港一帯の街の匂いがなんともいえず懐かしい。
 勿論、パリには馬糞の匂いはない。しかし、人なつこい、親しげな匂いが流れているようだ。身も心も浸して、じっとしていたいようなやすらぎを感ずる。これは単なる旅の感傷なのだろうか。

琉球新報 落ち穂 1978年6月22日

1978.6.8 琉球新報 落ち穂「ヨーデルの酒場」



ヨーデルの酒場

 夕方、チューリッヒに到着し、湯食をすますと、スイスの民謡・ヨーデルをききに出かけた。ヨーデルというからには、牧場の山小屋で、窓からは夕空が見えて、きっと寒いところで、案内のタクシーは古い街の中心部へ乗り入れた。せまい薄暗い入り口をはいると、スイス・シャレー(山小屋)風の酒場であった。正面の数段低くなったところが舞台で、まわりが次第に高くなり、テーブルや椅子が適当においてある。百人程はすわれるだろうか。舞台を楽しみながら一杯やるという寸法である。五メートルはあろうかというアルプスホルンの低いが力強い演奏が終り、はりのある、かん高いヨーデルの歌声が、直径五十センチ程の大きな牛の首にぶらさげる鐘のジャラン、ジャランという音、牛の鳴き声の擬音までが入りまじって、部屋の中にひびきわたる。スイスの谷や山へ流れる歌声が、部屋の中へ圧縮され、野性的な活気があふれそうだ。
 青年から老人まで男女が一緒になって、眼を輝かせて談笑し、大いに食い、かつ飲んでいる。ヨーデルの内容はスイスの自然や人情をうたったものにちがいない。酒に酔っているというよりも、歌に酔っているという感じだ。このいかにも楽しいふんいきに、こっちもまきこまれてしまう。ドイツ語でさかんに話しかけてくるが、さっぱりわからない。ただ気分はわかるので「ビッテ」とか「ダンケ」とかいって、こちらも、うなずき、笑い、大いに飲む。そのうちお客が歌に合わせて体をゆすり始めたかと思うと、時々、ヨッホ!ヤッホーとさかんに噺す。皿に熱がこもると、隣の人の肩に手をかけて、共に体をゆすり、ヤッホという囃しのところで、立ちあがらんばかりに大きく背伸びする。私も一緒にヨッホーである。人種のちがいも、極東の暑い島国と、寒いアルプスの山国との地理的なへだたりもすべてを忘れて、共に楽しく生きることの尊さみたいなものを認めあう、ある種の熱っぽい友情を共有する。
 翌朝知ったことだが、このスイス・シャレー風の酒場は、リマット河畔の旧市街の真ん中にあり、五百年の歴史をもつとのことであった。たった一晩というあわただしい日程にもかかわらず、チューリッヒの印象は、そのロマンチックな街のたたずまいと共に忘れ難い。

琉球新報 落ち穂 1978年6月8日

1978.5.26 琉球新報 落ち穂「洗濯物の見えない街」



洗濯物の見えない街

 三月二十九日、雄大なユングフラウを背景とする観光の街、インターラーケンで一泊する。化粧室には、バースはなく、直径1メートルほどの、円形の床から十センチ程高い簡単な設備があるだけであった。円の中心にあたる頂上にシャワーがついており、ビニールのカーテンをひくと、体が円筒形に隠される仕組みになっている。スキーや登山のお客が多いと見えて、いかにもスポーツマン好みのホテルであった。
 海抜五百九十二メートルのこの街はまだ寒く、街の屋根屋根にはまだかなりの雪が残っていた。しかし、部屋の中は,裸になっても寒さを感じないくらい暖かい。スチームによる暖房であろう。壁全体から柔らかい暖かさが伝わってくる。自然の温度のような快適さである。湯殿につかって体を温め、よごれをごしごし落とすような欲求は感じない。シャワーがあれば十分という感じだ。
 インタラーケンで四日目であったが、まだ一回しか着替えをしていない。ワイシャツの襟元や袖口が少しも汚れないのである。その原因は勿論、清らかな空気にある。スイスは地下資源としての石炭・石油が皆無であるが、そのかわり、アルプスの氷河の侵食を利用した発電が盛んで、鉄道も工業動力もすべて電力にたよっている。空気がきれいなはずである。
 ゆるやかに起伏する牧草地帯をマイクロバスの窓を眺めながら、案内人のルドルフ訓が笑いながら言った。
「土地買いませんかね。一坪一万円程でありますよ。但し、四百坪以下では駄目ですがね…」
 わざわざ「坪」という日本風の面積単位を使いながら説明した彼の言い分によると、建物のまわりに十分な緑地帯を設けて、街の美観を損なわないようにするためだそうである。また、街では、洗濯物を人目につくところに干してはいけないという規則があるそうで、そう言えば、一度も洗濯物にお目にかからなかった。それだけ市民が街の美しさを保つのに気を配っているということであろう。
スイスの美しさはアルプスの自然の美しさと、それと調和した街の美しさにある。資源に乏しく、貿易収支で大きな赤字を出しながら観光収入によって健全な財政を維持することが出来るのは,その美しい街のせいだろう。

琉球新報 落ち穂 1978年5月26日

2012年8月18日土曜日

1978.5.11 琉球新報 落ち穂「リマット河畔の新緑」


リマット河畔の新緑

 第1次世界大戦が始まった頃、「チューリッヒ」で反戦平和のパンフレットを盛んに出版した、ロマン・ロラン。ロシア革命や第二インターを、ルナチャルスキーと共に指導した、レーニン。ダダイズム運動をおこし、現代の芸術運動に様々な影響を与えた、芸術家の一群。第二次世界大戦の初期、まだ旧中三、四年生の頃、独ソ戦の戦況や戦時のヨーロッパの街の様子などが、「チューリッヒ」発の記事であったことー。
 バーゼルの街を過ぎ、チューリッヒへむかうレンタカーの中で、様々なことが、まだ見たことのないチューリッヒの街をめぐって想い出された。
 灰色の曇天の下に拡がる、淡雪をかぶった広い、なだらかな、今は牛のいない牧草地帯や、樅の木などの繁った黒々とした森林地帯や、教会を中心に、こじんまりとまとまった美しい集落などを後にして、三月二十八日の夕方、チューリッヒの街に入る。
 チューリッヒは人口四十四万をこす、スイス最大の都市であり、現在、国際的な交通、貿易、金融、株式取引の中心地で、ヨーロッパ最大の自由為替市場となっている。全長五千百十三キロという驚異的な鉄道を有するスイスで最初に鉄道を敷設したのもチューリッヒであり、中央駅からはドイツ、イタリア、ポーランドへ直通の急行列車が走っている。
 市街は、チューリッヒ湖から流出する、リマット川にそって発達し、両岸の古い市街は九世紀から十世紀ごろに始まる。特に十二世紀から十四世紀のゴシック建築にはすばらしいものが多い。市の図書館は、十五世紀の建物で、七十万冊の蔵書を有するといわれている。
 チューリッヒの街に入った。最初の印象は、リマット川の新緑の美しさであった。萌えるような緑、すがすがしい緑、桃色がかった柔らかい緑ー生き生きした、かわいらしい新芽の群ー様々な新緑が、幅二十メートルから三十メートルの帯となって、ずっと川辺に続き、レンタカーの窓一杯、清冽な川風に吹かれてそよいでいる。
 この緑が、街全体をのびやかな、ロマンチックなふんいきにつつみこんでいる。商業都市であると共に観光都市として益々さかんになっている秘密の一つは、この緑にありそうだ。この街へ行った人は、きっともう一度訪ねてみたいという気をおこすにちがいない。  

琉球新報 落ち穂 1978年5月11日

1978.4.23 琉球新報 落ち穂「ベルンのホテルで」


ベルンのホテルで

 ホテル・シュヴァイチェルホッフの廊下は二重、三重に絨毯が敷きつめられ、薄暗い壁には時代がかった版画が掛けられ、由緒あり気な油絵の肖像画が、こちらをじっと見つめたりする。古色蒼然たる、様々な家具類は数百年の生活を語りかけ、精巧に細工されたシャンデリアやブラケット、木製のベッドなど、すべてにスイスの伝統が生きている。磨きあげられ、どっしりと黒光りする椅子に腰かけて、夕暮れの静寂の中で、しばらくじっとしていると、まるで自分が、ヨーロッパ近世の歴史の舞台へ迷い込んだ一人物のような気がして、空想が果てしなく広がり、軽い、しかも豊かな気分に満たされる。この気分は七百年前に建立されたといわれる時計台からベルンの街に流れ広がる、ジャラン・ジャランという悠長な鐘の音によって更に深められるようだ。
 このすばらしい気分も、思えば長い間守られてきた平和のたまものであると、しみじみ感ずると共に、戦争によって失われた首里の城門をはじめとした数多くの建造物に思い至るとき、つくづくと平和の尊さを痛感させられた。
 ホテルを出ると、大通りをへだてた真向かいが、スイスの首都ベルンの表玄関で、その近代建築の高い壁には、大きくドイツ語、フランス語、イタリア語で、「ベルン駅」と表示がされている。
 スイスではそれぞれの地域でドイツ語、フランス語、イタリア語、それにこれら三つの言語が混ざり合ったロマンシ語の四つの言語が自由に話されている。七〇%以上の人々がドイツ語をつかっているが、そのドイツ語も各州(カントン)毎にそれぞれ特色があるそうである。一つの国民が、異なった言語を話すということは非常に不便で、面倒なことに違いないが、言語も含めて、各地方の文化を大切にすることの本質的な重要さから見れば、とるに足らぬとこといってよいのであろう。言語の違いを超えた、スイス人の平和を守る連帯は、各地域の人民の生活の豊かさを守る決意に支えられている。
 戦前、ウチナーグチが圧迫を受けたことは、日本の近代文明なるものの底の浅さを露呈したものとみてよいであろう。「おもろ」やウチナーグチや沖縄の芸能を大切にすることが、日本の文化を豊にし、平和に対する強い欲求につながるものであるということを、改めて確信させられた。  

琉球新報 落ち穂 1978年4月23日

1978.4.12 琉球新報 落ち穂「スイスの軍用機」 


スイスの軍用機

 長い風雪に耐えて、ごつごつと節くれだち、今、芽を吹かんとしている、レマン湖畔のプラタナスのすばらしい並木。街路にそって続く広々とした花壇の、目のさめるようなあざやかさ。何百年という歴史をたたみこんで、しっとりと、微妙な色彩に輝く家々の石の壁。郊外にひろがる、なだらかな起伏の緑のじゅうたん。その間に点在する、桜ンボをとる桜のみずみずしく鮮やかな薄桃色の花。農家が思い思いに塗りこめた、開かれた雨戸の多彩な原色。ーそれら、すべての風景が、まだ冷たい清澄な四月初めの空気の中で、夢幻的な世界を現出している。
 ジュネーブからベルンへむかう、レンタカーの中で私は夢心地になっていた。
 突然、運転手がフランス語で、叫ぶように話し出した。案内役のルドルフ君が、うなずきながら日本語で話してくれる。
「右手に見えますねー、広い空地。飛行場です。目立ちませんが、地下はすばらしい格納庫です。このような飛行場が、そうとうありますよ」
 滑走路には十数機の黒っぽい戦闘機がならんでおり、その中の二、三機が動き出していた。離陸の訓練でもしているのだろうか。
 ジュネーブ出身の運転手は、その後もスイスの防衛について、熱っぽく話しかけた。
 スイスの男子は二十歳から六十歳まで、すべて兵役の義務をもち、毎年、短期間ではあるが、訓練をうけている。各家庭には銃が準備してあり、いつでも戦闘に立ちあがれる。第二次世界大戦がおこった時には、ただちに五十万の大軍が動員されたそうである。
 このような、市民皆兵の強烈な防衛意識は、十字軍運動以後の新しいヨーロッパ諸国の利害関係が錯綜する渦の中で、十三世紀の後半以来、スイスの人々が、必死になって独立を確保することによって、平和を守ってきた、はげしい、長い、たたかいの歴史の裏付けがあることを知らされた。窓外の移りゆく、美しい風景を眺めながら、きびしい、平和の課題をかかえる、沖縄の、島々のたたずまいや、青い海のひろがりに、しばし思いをめぐらした。

琉球新報 落ち穂 1978年4月12日掲載

2012年8月6日月曜日

1976  奈良から来て  辺土名高校生徒会誌


奈良から来て

 住みなれた奈良県を去って本校へ勤務することになり、今から二十三年前の一九五三年一月に本校を描いたスケッチがあるのを知って、不思議な縁だと感じいりました。第一次学徒動員で軍隊へ行ってから約十年ぶりで故郷へ旅行したとき、本校の先生に辺戸岬まで案内してもらい、帰る途中、教室で話をする破目になってしまいました。
 内容まではっきり覚えていませんが、沖縄は戦争によってひどい目にあい、今尚、占領下のきびしい状態にあるが、本土や東南アジアの人民とともに平和な未来をきづくことにより希望が生れる筈だといったようなことを話したように思います。
 生徒諸君が、眼を輝かせて聞いてくれた情景が昨日のように思い出されます。彼等も、もう四十才前後になっている筈です。話の途中から雨が降り出し、屋根がパラパラして話が出来ず困ってしまいました。
 米軍のコンセット(かまぼこ兵舎)の教室で床もなく、椅子も机も砂の上にありました。あの当時のスケッチをみると茅葺の掘立式の建物なので、屋根がパラパラするのはおかしいと、新里教頭先生に聞いてみるとそれは教室ではなく、地域の人々がつくってくれた寄宿舎とのことでした。よく考えてみると、今の視聴覚ビルのあたりを、饒波橋のあたりからスケッチしたもののようです。
 粗末な建物とはいえ、あの苦しい日々の生活を考えると、本校に対する地域の方々の並々ならぬ協力と教育への情熱が感じられ、尊いものであるとしみじみ思います。
 辺高の者はこのような歴史を大切にしたいものです。

  海遠く 三輪山おもう 急転勤
  車窓より 潮騒あびる 急転勤
  白雲や 海白くして 島ただよう

  大和は国のまほろば たたなづく 青垣山
  もこれる大和し 美し……(古事記)

 奈良県には海はありませんが、美しい山々があります。
 二十年以上も三輪山を眺めながら通勤しました。併し、今、山原の海を眼前にして、あらためて海の美しさに魅せられています。真夏の静かな日、塩屋から沖をみると空に白雲が拡がり、その白い影が海に映じ、水平線がさだかでなく古宇利島が浮いてみえます。
これも又絶景の一つです。啄木は「雲は天才である」と言っていますが海も亦、千変万化、いくらみてもあきることがありません。少年の頃、悲しい時、海へゆき、潮の音に慰められたことを想い出します。
 本校の生徒が一般的に純情、素朴で親しみ深いのは、山原の美しい海と山のせいでしょうか。併し、ヤンバラーのもつ剛健な積極性が弱くなっているように思います。塩風をつっきって、毎日五八号線を、ひた走りに走り、練習に練習を重ね、遂に全県下を制覇し、京都でおこなわれる全国大会へ駒をすすめた駅伝の勝利が示すように、忍耐に忍耐を重ね、努力に努力を重ねて、栄光めざし頑張るならば辺高生の未来には洋々たるものがあると信じます。純情にして剛健ーーー この本校の長所をはっきり自覚し、あらゆる面、特に学習面に積極的にとりくむこと、これがもっとも大切なことのように思います。
 まさに「勇をもって事に当れ」です。断乎として頑張りましょう。

1976年 辺土名高校生徒会誌

やんばるだより<海人>


やんばるだより<海人> 山之端一博 時期不明

やんばるだより
<海人>うみんちゅ
山入端一博

 那覇空港より北の方へ、国道五十八号線をバスに乗り、那覇の市街地をすぎ、四〇分程ゆくと、嘉手納空軍基地を右に見ることができる。基地の金網がとぎれて、しばらくすると多幸山(たこうやま)という丘陵地帯にはいり、そこを出たとたんに左手に東支那海が拡がり、海岸まで丘陵地帯がせまる北部地域になる。おきなわでは北部の方を山原(やんばる)と呼んでいる。山や原野の多いところという意味であろう。
 やんばるは戦災も比較的少なく、自然も比較的保存され、言語・風俗などにも中南部とは異なった特色を残している。
 去年の四月、沖縄へ移ると、しばらくして病気で倒れ、北部の街・名護市の県立病院へ入院するはめになってしまった。病室はかなり広く、ベッドが六つあった。病棟が小高い丘の上にたっているので、広々とした二階の窓から街の屋根のかなたに、嘉津宇岳(かつうだけ)や名護湾が眺められ、夕方、西日がはいる難点があるほかは、快適とさえいえた。
 一九四一年(昭和十六年)に沖縄の中学を卒業して以来、時たま帰ることはあったが、住みつくのは三十四年ぶりである。その間、戦争あり、米軍の支配あり、日本復帰ありであらゆる面が激変しており、私自身、浦島太郎になったような気分で、すべてがもの珍しく、あれも、これも、見たい知りたいと思っていたのに、病室へとじけmられることと相なった。同室のT氏は、八十才をすぎて、白血球が減少する奇病にかかっていたが、かなり元気よく、枕もとによく話しかけに来てくれた。かつては「シベリア出兵」にも参加したことのある、六尺ゆたかな偉丈夫で、沖縄のいわゆる海人(うみんちゅ)である。海と共に生きている人である。激しい潮風のせいか、耳は大分遠くなっていたが、眼は達者でめがね無しで新聞がじゅうぶん読めた。波のうねりや、潮の流れ、雲の行方や形や色で、天候を判断し、海上で、あるいは海中で、絶えず魚を追いつづけ、夜空に拡がる星の位置によって方向を見定めた、たしかな眼である。子供の頃、誰かにもらった銅メダルの、浮彫の老トルストイのような、きびしい風貌があった。
 話をきいてくれる相手があると、いつも魚をとる話をしかけた。伊江島(いえじま)と本部半島(もとぶ)の間(海洋博がおこなわれたところ)の界面が真黒くなる程「かつお」の大群が泳ぐ様子。自分よりも大きい「さわら」をサバニ(沖縄の漁夫が使う小舟)からしとめ、半日も格闘をつづけた話。岩礁に住む「蛸」をとる、独特の道具を考案した話。山原(やんばる)のどこそこの村の沖あいの海の底は、どうなっており、いつ頃、どのような魚がどれ位移動してゆくか、それをとるにはどうしたらよいかなど、あたかも自分の庭のように海について語り、自分の一族のように魚について語った。
 魚の群の上にサバニが乗っているような、わんさと魚がいる場合でも、そう多くはとらなかったそうである。人の多い南部の街へ、魚の鮮度を落とさずに運ぶには、それ程多く小舟につむことが出来なかったからである。網で魚をとる場合、小さい魚は全部海へ放したそうである。海人(うみんちゅ)にぜいたくは縁がなかったのでしょうか。老人の眼は大ものをしとめた話になると益々輝き、せきこんで、訛りの強い方言を使うので、こちらで理解出来ず、是非知りたいと、聞きかえしても、耳が遠く、所詮、無駄であった。結局、こちらがうなずくばかりであった。
 この老漁夫の家は、海洋博会場のすぐそばにあり、魚をとるどころではなくなったことを口惜しがった。海洋博がおわり、海岸が静かになったら、体力のいらない「蛸とり」を専らしたいとわらった。
 やんばるの原野が開発され、パインが植えられたために、土砂が海へ流出し、珊瑚をおおい、こうして、海はだいぶよごれているようであるが、魚はまだかなりいるとのことであった。自然のサイクルをまもり、豊かな海を維持するには、どのような生き方をすればよいのだろうか。

  病漁夫の訛に匂う珊瑚海
  窓外の海へ病老の腕の黒き
  眺海が至福と老漁夫よこたわる
  漁夫病めば青銅のトルストイとなり

 病状がかなりよくなった頃、看護婦の眼をぬすんで、よく老人から刺身を御馳走になった。老人の弟子の漁夫の差しいれであった。

  南島や病床で海豚くらいけり


出典は不明。「去年の四月、沖縄へ移ると、しばらくして病気で倒れ・・・」の記述や、名護病院に入院についての記述等により、執筆時期は名護に移住後1年くらいたった頃と推測されます。また地理の記述もあるので、沖縄以外で読まれることを前提とした感があります。


1976.11.20 随筆アラカルト 私と絵画


1976.11.20 随筆アラカルト 私と絵画 新聞社不明


 夜明け前の薄闇につつまれた、鏡のような名護湾の入り口を、Pituの一群が静かに過ぎてゆく。白い石を満載した舟が、こっそり沖へ向かう。たくみにPituのうしろにまわったイチマナーたちが、白い石を投げこみながら群を湾の奥深く追いこんでゆく…。
 静寂に覆われ深い眠りから醒めやらぬグスク部落に突然ほら貝が鳴りひびき「Pituドオイ!」の声が湧きあがる。白い衣服を身につけて(黒いPituとまちがえられて傷つけられたら大変だ)モリ、綱、ざる、馬穴などを手に手にもって、老若男女がいっせいに戸外へとび出し、スージ・スージの福木の並木にたてかけられた舟をかついで、浜辺へくり出す。ウミンチュの指示にしたがい、Pituとの壮絶なたたかいが始まる。小さなサバニは右に左にと引きずりまわされ、中には綱を握ったまま、海中へ引きずりこまれる者もあったとか…元気な若者は、Pituに抱きつき、潮を吹き上げる呼吸孔をふさぎ、頭を岸にむけ、浜辺へ乗り上げていったとか…浜の女子供もPituに綱をまきつけて、上の方へ引きあげる。しらじらと明けはなたれた湾は、一面、赤い血に染められていた。Pituの肉はPituとりに参加した部落の人々全員に配分された。
 「キヤーギミソーレー、Pituヌスーシキ!」
 しばらくの間は、毎日のようにPituのにおいが家々の台所から流れた。
 これは、老人が語った今から五十年ほど前の、名護の風物詩の一節である。そのころ、私は三つか四つぐらいであったが、グスクの浜には、大きなブリグラーがあり阿檀が青々と繁っていた。大きな福木の生垣の外側には、さらに、きれいにあまれた竹の垣がしつけられ、家々の井戸には、鰻・鯉・ミキユーなどが住みついており、その冷たい、清冽な湧水がありありと想い出される。何ともすがすがしい部落であった。
 ヤマーヌパンチという私の家も、その中にあって、家のウーラジャにyama:tunchuの絵かきが逗留していた。私はよく煙草を買いに行かされた。たいてい一銭か二銭の駄賃がもらえたし、何とはなしに神秘めいたウラージャの絵をみることもできたので、勢よく煙草屋へ走ったものだった。後に聞いた話だが、Pituがよった日、スケッチブックをかかえたひょろひょろした白面の絵かきが、いきなりPituとりの舟の中へ乗りこんできたことがあった。
 「エー・プリムヌ!」
 おどろいたのは舟の人々である。このはげしいたたかいの中で、海にふりおとされ、Pituとまちがえられて突きさされたらおしまいだ。力づくで引きずりおろそうとしたが、舷(ふなべり)にかじりついてなかなか離れようとしなかったそうである。水彩画家として、日本人にも知られている、イギリスのターナーは、嵐にもまれる船のマストに自分の体をしばりつけ生命がけで、荒れ狂う海や空の動きを観察したといわれているが、これと似たような絵に対する一途な執念がしのばれる。
 ウラージャの絵の中で、今でもありありと想い出されるのは、壁に立てかけられた大きな油絵である。おそらく一〇〇号の絵であったろう。新聞配達らしい若い労働者が、暁の街並を背景にして道路にすっくと立ち、まさに仕事に出かけようとしている図で、ひきしまった青年の顔だちと共に全体から、すがすがしい力強さが感じられた.色調は灰色がかったブルーを主張とし、やや重々しい感じ。どうしてこのような気迫のある絵が、あの弱々しい絵かきから生れたのであろうか、と思われる程であった。
 絵かきはしばらくして本土へ去ったが、「轟の滝」と「名護町風景」がその後も家に残っていた。「轟の滝」は重厚な油絵で大きな岩をリアルに描いてあった。小学校六年生のころそれをモデルに水彩画を描いたことがある。「名護町風景」はナングスクからの遠望で、名護湾と嘉津宇の山々を背景とし、あざやかな白い浜辺の手前に、福木・がじゅまる・せんだん・赤木などの豊かな緑が町をおおって拡がり、その中に、茶色味がかったうす墨色の茅ぶき屋根が見え隠れしていた。この絵を模写したのは、たしか油絵を描き始めた中学二年か三年のころだったように思う。残念ながら、これらの絵は戦争で全部失われた。この絵かきのものとしては、祖母を描いた一点だけが、戦災から守られて、あちらこちらいたんではいるものの、現在も残っている。
 「祖母の肖像画」が描かれた一九二〇年代の中ごろ(昭和の初めごろ)には、もう名護の町にも電灯がともっていたが、それはきわめて頼りないものであった。夜ともなると、部落をつつむ静かな夜空へ、電気会社の発電機の単調な音だけが、妙にはっきりと拡がった。ーパタンパタン・パタンパタン・パタンパタンーーところが、時々ーーパターンパタン・パターンパタンと青色吐息という状態になる。すると下方に硝子のtugaiのある裸電球が、スーと消えかかる。ただでさえ、うす暗い部屋がなお一層暗くなる。台所の囲炉裏の側の板の間に、むしろを敷いてよこたわる祖母の足を、私は毎晩のように、この電灯のもとでもんだものだった。固い筋肉をつつんでいる、たるんだ皮膚は、かさかさに乾いて無数のしわがよっていた。なめされた、うすい皮のようにすべすべした、その肌ざわりが、今でも指先に残っているようだ。
 夜の十時ごろになり、発電機がパッタン!と大きな息を吐いて止まってしまうと、あたりは真暗な闇となり、囲炉裏のちょろちょろしたほのおが、いきもののように躍っていた。
 当時、ヤーヌシンカの外に豚・牛・馬・山羊と家畜も多かったので、たべるいもの量も相当なものであったにちがいない。井戸の側に大きな黄色っぽい石をほり抜いて作った石ドォーニーがあった。直径一メートル、暑さ一〇センチになんなんとする、お椀のお化けのようなごっついものであった。それにいもを入れて足でごしごし洗った。シンメーナービにいもをいれてたく、その燃料のタムンもかなりの量を消費したものと思う。祖母は七十歳をすぎても重い斧をふりかざしてタムンワヤーをする程働きものであった。O字型にまがった足をひきずって、いつみても、何か仕事をしている祖母の姿が浮かぶ。
 私はヤーヌシンカと共に、四角の盆に盛られたアチファンファンのいもをほおばり、シルで流し込むのが大好きであったが、祖母は「ワッタ、ウマーガ・ワッタ、ウマーガ」といって、魚・肉・卵やきなど、何か一品料理をいつもサービスしてくれた。祖母は細い眼をし、しわだらけの、丸味のあるやさしい顔だちであった。
 しかし、肖像画からは、いくぶん変わった印象を受ける。一日に半地間か、あるいは一時間以上も琉球絣を着こみ、他人行儀の輻輳をして、yama:tunchuの油絵かきのモデルにされるなどということは、全く場ちがいの感じであったにちがいない。しかもきわめて生真面目であったらしい絵かきと相対して、思わず、きびしい表情になったのであろう。仕上がるまでに、相当の時間がかかったものと思われるので、祖母もかなりの忍耐力を要したのではないか。どこかしら苦しげなところもあるようだ。対象の本質を執ように追求する絵かきの気迫が、画面のすみずみから感じられ、重厚な肖像画になっている。この絵の前に坐ると、祖母(パッパー)はじっと、こっちをみつめて語りかけてくるような気がする。
「キバーランキネーナランドォー・キバーランキネーナランドォー・ワラーイ」

(筆者はアマチュアの権威ある絵画作品コンテスト「サロン・デ・ボザール展」で大賞を授賞)


掲載:yas

2012年6月12日火曜日

1940.4.4 漫湖風景水彩画

 漫湖漫湖といふけれど
何の感激おこるのか


静寂の美しさ
といひながら
そこに美しさがあるのか
どこかねー




裏書き
相反す よってマイナス点なり
偽善家的だ 僕の精神を
のっぺらぼうだ
俺未だ知らない
味もない平凡な人を馬鹿にした繪なり?
此の繪は四月四日に描く




二中時代に描いたと思われる水彩画です。

2012年6月10日日曜日

1983.2.15 直筆原稿

日付 1983.2.15 
サロン・デ・ボザール大賞授賞についての言葉?
受賞年と日付との差があります。
どのような目的で書かれたものか現時点で不明です。

1976.11 サロン・デ・ボザール機関誌 大賞授賞の言葉


月刊サロン・デ・ボザール11月号掲載

受賞の言葉