2012年8月6日月曜日

やんばるだより<海人>


やんばるだより<海人> 山之端一博 時期不明

やんばるだより
<海人>うみんちゅ
山入端一博

 那覇空港より北の方へ、国道五十八号線をバスに乗り、那覇の市街地をすぎ、四〇分程ゆくと、嘉手納空軍基地を右に見ることができる。基地の金網がとぎれて、しばらくすると多幸山(たこうやま)という丘陵地帯にはいり、そこを出たとたんに左手に東支那海が拡がり、海岸まで丘陵地帯がせまる北部地域になる。おきなわでは北部の方を山原(やんばる)と呼んでいる。山や原野の多いところという意味であろう。
 やんばるは戦災も比較的少なく、自然も比較的保存され、言語・風俗などにも中南部とは異なった特色を残している。
 去年の四月、沖縄へ移ると、しばらくして病気で倒れ、北部の街・名護市の県立病院へ入院するはめになってしまった。病室はかなり広く、ベッドが六つあった。病棟が小高い丘の上にたっているので、広々とした二階の窓から街の屋根のかなたに、嘉津宇岳(かつうだけ)や名護湾が眺められ、夕方、西日がはいる難点があるほかは、快適とさえいえた。
 一九四一年(昭和十六年)に沖縄の中学を卒業して以来、時たま帰ることはあったが、住みつくのは三十四年ぶりである。その間、戦争あり、米軍の支配あり、日本復帰ありであらゆる面が激変しており、私自身、浦島太郎になったような気分で、すべてがもの珍しく、あれも、これも、見たい知りたいと思っていたのに、病室へとじけmられることと相なった。同室のT氏は、八十才をすぎて、白血球が減少する奇病にかかっていたが、かなり元気よく、枕もとによく話しかけに来てくれた。かつては「シベリア出兵」にも参加したことのある、六尺ゆたかな偉丈夫で、沖縄のいわゆる海人(うみんちゅ)である。海と共に生きている人である。激しい潮風のせいか、耳は大分遠くなっていたが、眼は達者でめがね無しで新聞がじゅうぶん読めた。波のうねりや、潮の流れ、雲の行方や形や色で、天候を判断し、海上で、あるいは海中で、絶えず魚を追いつづけ、夜空に拡がる星の位置によって方向を見定めた、たしかな眼である。子供の頃、誰かにもらった銅メダルの、浮彫の老トルストイのような、きびしい風貌があった。
 話をきいてくれる相手があると、いつも魚をとる話をしかけた。伊江島(いえじま)と本部半島(もとぶ)の間(海洋博がおこなわれたところ)の界面が真黒くなる程「かつお」の大群が泳ぐ様子。自分よりも大きい「さわら」をサバニ(沖縄の漁夫が使う小舟)からしとめ、半日も格闘をつづけた話。岩礁に住む「蛸」をとる、独特の道具を考案した話。山原(やんばる)のどこそこの村の沖あいの海の底は、どうなっており、いつ頃、どのような魚がどれ位移動してゆくか、それをとるにはどうしたらよいかなど、あたかも自分の庭のように海について語り、自分の一族のように魚について語った。
 魚の群の上にサバニが乗っているような、わんさと魚がいる場合でも、そう多くはとらなかったそうである。人の多い南部の街へ、魚の鮮度を落とさずに運ぶには、それ程多く小舟につむことが出来なかったからである。網で魚をとる場合、小さい魚は全部海へ放したそうである。海人(うみんちゅ)にぜいたくは縁がなかったのでしょうか。老人の眼は大ものをしとめた話になると益々輝き、せきこんで、訛りの強い方言を使うので、こちらで理解出来ず、是非知りたいと、聞きかえしても、耳が遠く、所詮、無駄であった。結局、こちらがうなずくばかりであった。
 この老漁夫の家は、海洋博会場のすぐそばにあり、魚をとるどころではなくなったことを口惜しがった。海洋博がおわり、海岸が静かになったら、体力のいらない「蛸とり」を専らしたいとわらった。
 やんばるの原野が開発され、パインが植えられたために、土砂が海へ流出し、珊瑚をおおい、こうして、海はだいぶよごれているようであるが、魚はまだかなりいるとのことであった。自然のサイクルをまもり、豊かな海を維持するには、どのような生き方をすればよいのだろうか。

  病漁夫の訛に匂う珊瑚海
  窓外の海へ病老の腕の黒き
  眺海が至福と老漁夫よこたわる
  漁夫病めば青銅のトルストイとなり

 病状がかなりよくなった頃、看護婦の眼をぬすんで、よく老人から刺身を御馳走になった。老人の弟子の漁夫の差しいれであった。

  南島や病床で海豚くらいけり


出典は不明。「去年の四月、沖縄へ移ると、しばらくして病気で倒れ・・・」の記述や、名護病院に入院についての記述等により、執筆時期は名護に移住後1年くらいたった頃と推測されます。また地理の記述もあるので、沖縄以外で読まれることを前提とした感があります。