2012年8月31日金曜日

時期不明 沖永良部へ渡る舟(直筆原稿より)


沖永良部へ渡る舟 山入端一博(名護博物館協議委員)

 輿論(ユンヌ)や沖永良部は、やんばる圏といってもよいのだから、もっとやんばるとの間に船の往き来があってもよさそうなものだがと思いながら、まあ久し振で那覇の港へゆくのもよいだろうと、午前5時半名護始発のバスに乗り、7時半集合にぎりぎり間にあった。
 三重城周辺は全く昔の面影を失なっているが港の一角に、かつて山原船が停泊した掘割の一部が残っている。波の上の塩水プールがまだなかった昭和の始め頃は、県下の中学生、高等女学生の競泳大会はこの掘割で、テンマセンから飛びこんで、行われたものである。附近にはトントンブニグワーの造船所もあった。 思ったより豪華なクィーン・コーラル号に乗りこみ、北上する。飛行機から眼下に見る沖縄島は「大きい」という感じはないが、船からみるとなかなか「大きい」。宮城真治著「沖縄地名考」によると、沖縄島周辺の島には沖縄島のことをウクナー、ウキナー、ウチナーなどと呼んでいるところが多いとのことで、ウクは大きい、ナーは村、島、国などの意味があり、つまりオキナワは「大きな島」ということになっている。成程、次から次へと現われる島々に比べると「大きい島」だ。昔の小さな舟からみると更にその感を深くしたにちがいない。
 大正末期に沖永良部へ行かれた伊波普猷さんは、帰りに乗られた平安座船のことを次のように書かれている。「・・・・長さ4間、巾半間の独木船(サバニ)を四叟組み合わせ、舟と舟との間には、山原竹(ヤンバルダーキー)を束ねたものをはさんで、その弾力で相互のきしみあうのを防ぎ、ふなべりには一尺五寸位の波よけをつけ、帆柱が二本立ててありますが、風の都合のわるいときの設備として、艫には大きな櫓が二つほど用意してあります。杉舟でしかも吃水が浅いので、浅瀬でも、大洋でも、滑るように走りますが、どんなしけにあっても沈没する気づかいはさらになく、よし全部浸水することがあっても、筏のようにじつと浮かんでいるとのことです。・・・」(大正15年刊行「琉球古今記」)
 今から200年程前に私の先祖の一人は名護間切、大兼久村からクンジャン、ユンヌを経由して沖永良部へ渡り、ノロと一緒になり、その子孫が知名町で繁栄している。彼の乗った舟はどんなものであったのだろうか、近づいてくる沖永良部島を眺めながらしばし感慨にふけった。(原稿ママ)