2012年8月23日木曜日

1978.5.26 琉球新報 落ち穂「洗濯物の見えない街」



洗濯物の見えない街

 三月二十九日、雄大なユングフラウを背景とする観光の街、インターラーケンで一泊する。化粧室には、バースはなく、直径1メートルほどの、円形の床から十センチ程高い簡単な設備があるだけであった。円の中心にあたる頂上にシャワーがついており、ビニールのカーテンをひくと、体が円筒形に隠される仕組みになっている。スキーや登山のお客が多いと見えて、いかにもスポーツマン好みのホテルであった。
 海抜五百九十二メートルのこの街はまだ寒く、街の屋根屋根にはまだかなりの雪が残っていた。しかし、部屋の中は,裸になっても寒さを感じないくらい暖かい。スチームによる暖房であろう。壁全体から柔らかい暖かさが伝わってくる。自然の温度のような快適さである。湯殿につかって体を温め、よごれをごしごし落とすような欲求は感じない。シャワーがあれば十分という感じだ。
 インタラーケンで四日目であったが、まだ一回しか着替えをしていない。ワイシャツの襟元や袖口が少しも汚れないのである。その原因は勿論、清らかな空気にある。スイスは地下資源としての石炭・石油が皆無であるが、そのかわり、アルプスの氷河の侵食を利用した発電が盛んで、鉄道も工業動力もすべて電力にたよっている。空気がきれいなはずである。
 ゆるやかに起伏する牧草地帯をマイクロバスの窓を眺めながら、案内人のルドルフ訓が笑いながら言った。
「土地買いませんかね。一坪一万円程でありますよ。但し、四百坪以下では駄目ですがね…」
 わざわざ「坪」という日本風の面積単位を使いながら説明した彼の言い分によると、建物のまわりに十分な緑地帯を設けて、街の美観を損なわないようにするためだそうである。また、街では、洗濯物を人目につくところに干してはいけないという規則があるそうで、そう言えば、一度も洗濯物にお目にかからなかった。それだけ市民が街の美しさを保つのに気を配っているということであろう。
スイスの美しさはアルプスの自然の美しさと、それと調和した街の美しさにある。資源に乏しく、貿易収支で大きな赤字を出しながら観光収入によって健全な財政を維持することが出来るのは,その美しい街のせいだろう。

琉球新報 落ち穂 1978年5月26日