2012年8月26日日曜日

1992.3.13 沖縄タイムス唐獅子「鑑真と阿児奈波島」



鑑真と阿児奈波島

 天平勝宝六年(七五四年)四月、東大寺の大仏の前に戒壇が設けられ、唐から来た僧、鑑真とその弟子によって初の受戒がおこなわれた。この時、聖武天皇はじめ、皇后、皇太子まで四百四十余人が戒を受けたという。
 鑑真の第一回目の日本渡航の試みは七四三年の春、五十五歳の時であったが、海賊にまちがえられて失敗。第二回目は同じ年の冬、僧十六人の外に、画工や彫刻家など、三回目も四回目も失敗。五回目は七四八年に決行されたが、難破して、海南島に漂着。命はとりとめたものの失明した。第六回目は、天平勝宝五年、ヤマトへ帰る遣唐船で、密航というかたちでおこなわれた。
 淡海三船「唐大和上東征伝」(群青類従)によると、蘇州、十一月十六日出発、二十一日、阿児奈波島に到り、十二月六日出帆。二十日、薩摩へ着いている。
 阿児奈波島はオキナワにまちがいないだろうが、一行は約二週間、オキナワのどこへ停泊したのか、ウチナーンチュとの交渉はどんなものだったのか。
 八世紀の中頃というと、貝塚時代後期、漁撈を中心とする採取経済の段階である。ヤマトンチューが、かなりオキナワへ来たはずだが、ヤマトの農耕文化は定着しなかった。
 あの時代のオキナワの礁湖は、魚介類や海藻類が豊富で、あえて稲をつくる必要はなかったのだろうか。口分田を強制的に割りあて、稲を租税としてとりたてる役人を、大和朝廷がオキナワに派遣するには、まだまだ航海術は未熟であり、危険が多すぎた。オキナワをとりまく自然的、歴史的環境が、ヤマトの歴史とのズレをもたらしたものと考えられる。
 中国人をトーヌチュー、日本人をヤマトンチューと、今でもよんでいるところをみると、当時、唐・大和からのインパクトは余程強かったのだろう。

沖縄タイムス 唐獅子 1992年3月13日掲載