2012年8月27日月曜日

1992.6.19 沖縄タイムス 唐獅子「フジタのおしえ」



フジタのおしえ

「藤田嗣治先生を囲む学習会」が、波上・護国寺の離れで開かれたのは、1938年の夏。県立二中の美術担当、比嘉景常先生の立案である。私は三年生に進級したばかりであったが、オカッパとめがねの、例のフジタの顔と共に、次のようなお話をうかがったことを覚えている。
 「絵かきは模倣してはいけない。自然と自分の間で、新しい作品を創造しなければならない。ひたすら『自分の絵』を追求すべきだ。私はただ絵を描き続けた。或る日、パリーの古い城壁で、いつものように描いていると、今まで見たことのない、『自分の全く新しい絵』が、突然、画面に定着した。私は『これだー』と思わず大声で叫び、悦びのあまり、野原の上を転げ廻った。」
 フジタは、1913年6月、パリーに着いた翌日ピカソに会い、アンリ・ルソーの絵を見せられ、暮にはモディリアーニ、スーティンとモンパルナスで生活を共にしている。第一次世界大戦中、貧乏とたたかい、皆「自分の絵」を追いつづけた。モディリアーニは1920年、困窮の中で世を去るが、フジタは同じ年、陶器のような肌合いの乳白色の画面に、面相筆で、細密画風に描いた「裸婦」が評判となり、戦後のパリー画壇を代表する画家の一人として、黄金時代を築いていった。
 私が再び、フジタの話を聞いたのは、1942年4月、大学の入学式の時で、オカッパは軍人風のイガグリ頭に変わっていた。
 「従軍画家として『よい戦争画』を描くには、決死の覚悟で、戦地に赴き、戦争の現実をよく観て、よく描く事である…」
 戦後、戦争協力者として批判されたフジタは1949年アメリカ経由で、パリーに向かい、1968年レオナール・フジタとして死んだ。
 フジタの「アッツ玉砕」や「サイパン島の同胞臣節を完うす」の図版をみると、果たして戦意昂揚に役立つものかとの疑問がおこる。

沖縄タイムス 唐獅子 1992年6月19日